始まりも終わりも全てこの場所で、とてもとても幸せな10か月だった。
頭の中がどこまでも朝もやにかかってしまったように、ぼうっとした中で虎徹はふんわりと目を覚ました。
それでも起きてしまうのが勿体無いような感覚で、覚醒してもぼんやりとし続けているような気がする。
微睡の中でゆっくりと重い瞼を開くと、シーツの白が視界に開ける。
自分のベッドはこんなに広くはない。ああ…ここは………
「おはようございます。虎徹さん」
ふっと、後ろの耳元で囁かれるのは通る声。
「おはよう。バニー」
首だけ少し後ろへと向けると、バーナビーの見事な金色の髪が目に入る。
いつもは完璧な仕上がりを見せるその髪も、ベッドの上では少し乱れを見せている。
こんな姿を見せるのは後にも先にも、もう虎徹相手にしかないのかもしれない。
横向きになりながら後ろから抱き締められているのは分かるのだが、硬直とは別の若干の違和感を虎徹は覚えた。
これは動くのが鬱陶しいのとまた違う…
「バニーちゃん………何で入ってんの?」
じんわりと少し嫌な汗をかきながら、冗談と思いたいからこそ、ため息混じりに虎徹は尋ねる。
腰をがっちりホールドされているとはいえ、自分の身体なのだから下半身のそぐわない事ぐらいわかる。
外は確実に清々しい朝を示しているというのに、入れっぱなしとはどういうことだ?
しかも、寝る前におぼろげだが、それでも抜いて後処理をきちんとしていたような記憶はあるというのに。
「ああ…そろそろ時間ですから目覚めて貰おうと思って、さっき入れたんですけど、起きませんでしたね」
顔の表情は虎徹からでは見えないが、明らかにけろりとバーナビーは告げてくる。確信犯すぎて怖い。
「普通に起こせ。普通に!」
瞬時に、かっと虎徹の頬が赤くなった気がする。
一応、恥ずかしさの中に怒気を含んだつもりだが、効果はないようだ。
目線だけじっと上にあげると、枕の横に昨夜の残りのローションが転がっているのがわかる。
きちんとフタを閉めてあるバーナビーの几帳面ぶりにはそれなりに感心するが、別にこういう場所で発揮しなくてもいいと思った。
「何度か声はかけましたけど、虎徹さん。疲れていたみたいですから。ブルーローズに頼んで居残り練習なんてするからですよ」
「何だ。気づいていたのか…」
ふふっと耳元でささやかれるのが何だかこそばゆくて、少し震えながら耳をちょっと隠して虎徹は言った。
ここ数日、自分たち二人のヒーローとブルーローズを含めた3人の新ユニットとしてBTBデビューイベントの準備をしていた。
忙しいヒーロー活動と各種のプロモーション活動の合間を縫ってということで、普段より疲れていたのは確かだったのかもしれない。
「僕は、虎徹さんのことなら何でもわかるんです。人一倍、頑張り屋さんですものね」
そう言いながら虎徹の髪をなでるように指ですくう。
「てっきり怒るかと思ってたんだけどなあ。浮気だ、とか言って」
ブルーローズに結構遅い時間までダンスの練習に付き合ってもらったことは事実であった。
それでも相手は未成年であるからして、早く帰る努力はしたのだが…いかんせんどうしようもないこともある。
「まさか。虎徹さんが僕を裏切るなんて絶対にあり得ません」
上辺だけ耳を隠した虎徹の指を一本一本丁寧に解いて、震えるほどに愛をささやいた。
そのままやわらかい耳たぶの輪郭をなぞるように後ろから顔を寄せて舌で伝って行くと、僅かな舌の水音さえ脳内に響く。
「っやめ……もう、時間なんだろう?起きるから。………ていうか、何時だよ」
ただでさえ身体がとろけている朝っぱらから、背筋がぞくぞくとして仕方ないから、身を捩って振り切るように虎徹は時計を求めた。
こんなふうにバーナビーに掴まれている状況では、顔を上げて壁時計さえ見えない。
虎徹は結構ギリギリまで寝ている性格だったが、バーナビーがそれなりに時間をきっかり守る方なので、合わせて二人で居る時は結構早く起きるようになったのが唯一の幸いだが。
「はい」
促されたバーナビーは仕方なく、少し腕を伸ばしてベッドサイドの照明の横に置いてある虎徹の腕時計をひょいっと持ち上げて、そのまま眼前へ持って行ってやった。
「げっ…もうこんな時間か」
ぶら下がる自身の腕時計で明確な時間を脳内に叩きこむと、些か嫌な声が出た。
かなり熟睡は出来なかったというか、早く寝たいのにバーナビーの終わらない性欲に付き合っていて、あんまり寝ていないような気がするのに、最後に時間を気にする余裕なんていつもない。
ともかくまだ遅刻というわけではないが、そろそろ起きださないと確実に困る時間であることに間違いはないだろう。
「起きます?じゃあ、頑張って下さいね」
「は?っていうか、そろそろ離れろよ」
一体何を頑張るというのだろうか。
とにかく起き上らないとどうしようもないので、バーナビーに退くように促した。
「無理です。僕から動いたら、したくなりますから。きっと何回かやらないと止まりませんよ?」
だからわざと入れたのに、わかってくれなかったのかと、わざと残念そうに伝えてあげる。
「何、朝っぱらから飛んでもない発言してんだ!」
そんなことしたら、後始末にも相当な時間がかかってしまうし、何よりも精神的に良くない。
「生理現象です。だって虎徹さんだって…」
きっぱり言い切った後、バーナビーは虎徹の腰を掴んでいた手をそろりと前の方に持って行こうとする。
窪むほどに薄いあばら骨も包む肉も丸ごと飲み込んでいた手がへその前まで来ると、ゆっくりとそのまま下に降りようと模索し始める。
小指がほんの少し引っかかる。
「待て待て待て!わかったからやめろ」
慌てて大声を出して虎徹は、バーナビーのその手を寸でのところでガードした。
危ない…ここで自分まで臨界体制に持っていかれては確実にアウトだった。
「じゃあ、どうします?僕はこのままでも十分楽しいですけど」
ガードされた手を逆に掴みとって、指をゆっくりと絡め合い握るのが楽しくて仕方ないと、バーナビーは愉快に微笑む。
「………俺が……抜けば…いいんだろ………」
最後は消え入りそうな言葉なのが可愛くて、バーナビーは心の中で良く出来ましたと言った。
虎徹は悔し紛れに、バーナビーの絡めた手を損さに外すと、開いた手でしっかりとシーツを掴む。僅かにぐしゃりとしわを刻んだ。
それにしても、なんだか余計に後ろから寄りかかられている気さえする。
全く…逃れたいというのに、相手はさっぱり協力的でないのが憎たらしい。
どうせ後ろから優越そうに眺めているに違いないのに。
僅かにだらんっと伸びていた足に少し力を入れると、ずきんっと身体の節々が痛むのを感じて、多分どこかまた変に筋肉痛だなと思う。
年のせいか治りが遅いのも全部バーナビーのせいだと文句を並べながら、虎徹はゆっくりとだが、鈍くなった腰を引いた。
嫌でも意識をそちらに集中させることになり、リアルに中に入っている物の形を感じてしまう。
「………ぅ…、…」
鼻から抜ける声は極力小さくしたつもりだったが、こんな静かな場所でしかもここまで密着しているのでは、あまり意味がない。
内側の粘膜が引きずられるように出て行くのを阻止しているのが恨めしいが、理性をフル動員してなるべく冷静を努めるふりをする。
本当に僅かだが、二人の完全な密着から解放される。
それでもまだほのかに相手の肌の暖かさを感じるくらいには近い。
「…はぁ……は…ぁ」
たった少し腹筋使っただけで、この息切れとはどうしたことだと、虎徹は自分を叱咤したくなる。
年齢はそれなりに重ねているつもりではあるが、何しろこういった経験はバーナビーと付き合うまで皆無だったのだから仕方ないのかもしれないが。
「それだけ頑張っても、まだ3cm程度ですか?全部抜くのにどれだけ時間かけるつもりですか」
見かねたバーナビーが声を落としてくる。
「…うるさ…い。っていうか………さり気無く半立ちから完全に朝立ちしてんじゃねーよ」
やれやれと小馬鹿にされたが納得がいかない。
絶対最初より膨張してるし、むしろバーナビーは完全にこちらを邪魔しているとしか思えなかった。
「朝立ち…じゃありませんよ。僕は貴方に欲情しているんですから………」
確実な色を見せて、バーナビーは少しだけ抜けた接合部に指をやり、ぐるりと丁寧になぞった。
しばらくそれを楽しんだ後は、ぐいっと爪先から間に割り入ろうとする。
「………っ…う………何、…して………」
予想していなかった新たな動きに虎徹は、身もだえる。
背骨を僅かに丸めて、与えられる刺激を逃がそうと無理に身をよじる。
「手伝って欲しそうな顔していたじゃないですか。ほらっ、これで抜きやすくありません?」
「………んなわけ…ある……か………」
確かにバーナビーからは抜こうという努力はしていないが、これでは虎徹の身体の方に逆効果だった。
どこまでも脳内が痺れ続けて、自分の身体なのに全く言うことをきいてくれなくて勘弁して欲しい。
「動くなと言ったり、手伝えって訴えたり、我が侭ですね。でも、そういうところも好きですよ」
背中を伝う可哀想な汗をぺろりと舐めてあげて、そのままキスをいくつか降らせると、バーナビーは虎徹の望むようにそのまま抜いてあげた。
その動きは刺激を与えないようにゆっくりだったが、単純にバーナビーが震える虎徹の姿をじっくりと観察したかっただけだ。
その後、震える虎徹の性器をそのままにしておくと可哀想だったから、手で抜いてあげたのに…全部終わった後で軽くグーで胸板を殴られた。
少し納得はいかなかったけど焦りながらも達する顔が愛くるしかったから、良しとした。
適度にぬるめのシャワーは気持ちがいい。
これでもこちらの国ではあまり熱いシャワーは好まれていないようだから、分類的には熱いのかもしれないが。
「まいったな………」
何とかバーナビーを引き離して、虎徹は先にシャワーを借りた。
自分以外誰も聞いていないからこそ、音の響くシャワー室でわざと盛大に溜息をついた。
また好き勝手バーナビーにされたことは、数えたらキリがないのだが、重症を自覚する。
甘えさせているし自分も甘えてもいる。
バーナビーとセックスをし始めてから10か月近く経っているが、仕事が順調になるにつれ、どんどん深みにハマっている気がする。
単純にセックスする頻度も増えたし、ここ最近の泊まった回数だって覚えていないくらいだ。
バーナビーは顔出ししているし自然と目立つ存在だから、いくら自分が相棒であるとはいえ、ホテルも入れない。
そもそも一部のアジア諸国以外は一般的に言うラブホテル的なものはないし、カーセックスも色々と危険だ。
必然と、このバーナビーの部屋ですることが多くなっているが、抵抗感が薄くなっている自分が怖い。
いや自分のことはこの際どうでも良かったのだが、相手のことを思うと………
「…虎徹さん?」
意識の途中にコンコンコンと何度かノックを受けたが頭に入っていなかったので、その声でようやく気がつく。
慌ててシャワーのコルクを閉じると、水音混じりだったバーナビーの声がはっきりと聞こえる。
「シャンプーそろそろ切れそうだったと思うので、替えここに置いておきますね」
さっき怒ったことを少し気にしてか、それだけ伝えるとバーナビーはこちらの邪魔しないようにさっさと行ってしまう。
後に残ったのは虎徹の新しいシャンプーだ。
髪質も肌質も全然違う二人なので、使っているシャンプーもボディーソープも系統がまるで異なる。
別に用意を頼んだわけでもないがそういったことは、いつの間にかこの家に供えられていたことに自然すぎて最初は直ぐには気がつかなかったぐらいだ。こうやって声をかけられる方が珍しいくらいで。
この後、朝食が待っていようと一度は浴室で歯みがきをしてしまう癖もとうにバレている。
余念を払拭して、時間があまりないのでそれら一連の行動を手早く済ませた虎徹は、後にバーナビーも待っているのだからと、さっさと浴室を出る。
さて、着替えるかと思って、ようやくこの時点で替えの服のことを思い出す。
そうだ。昨日、帰宅と同時にベッドに見事に雪崩れ込んだせいで、脱がされたシャツは無残にも床でくしゃくちゃになっていたのを、ここに来る前に自分で踏みつけた記憶さえある。
ああ、困った。替えを持ってくるの忘れた。
たとえバーナビーに服を借りるにしても一時的なのはともかくとしても、仕事となると色々と問題も出てくる。
仕方なく、ひょこっと顔だけ出して、キッチンにいるらしい音を立てているバーナビーに声をかける。
「バニー。俺、一回家に戻るから、少し遅れるってロイズさんに伝えておいてくれ」
昔なら遅刻は大厳禁であったが、以前と違ってマネージャーやってくれるロイズさんも丸くなったというか、優しくなったというか、つまりそんな感じで。
三人のリハーサルには多少遅れるかもしれないが大遅刻ってわけでもないから、見逃してくれるだろうと勝手に結論づける。
「えっ…どうしたんですか?」
なぜか慌てたらしいバーナビーは盛り付け用の白い食器皿片手に、こちらにわざわざやってきた。
「いや、俺のシャツさ。昨日のまんまだろ?これから洗ってアイロンかけてたら確実に時間ヤバいし、家に取りに行った方が早いなと思って」
「ああ…あれですか。すみません。気がつかなくて」
脱がせてぽいっと床に投げたのは確かにバーナビーであった。
気が回らないのは悪かったが、そんな余裕もなかったので仕方ない。
「いや、別に俺も踏みつけてトドメさしたし。気にすんなって。ともかく一旦帰るから、せっかくメシ準備してもらっているのに悪いけど」
意識せずに少し匂いをかいでも、トースターでパンの焼ける香しさが漂っている。
時間が時間だしバーナビーもそれほど料理がうまいというわけでもないから簡単な軽食程度だが、これから歌ったり踊ったりとなかなか地味にハードな仕事が待ち受けているのだから、食べた方が絶対にいいとわかっているからこそ申し訳ない気持ちになる。
「シャツがあればいいんですよね?ありますよ」
少し考え込んだジェスチャーをしたバーナビーはあっさりそう答えた。
「えっ、どこに?」
「ほらっ…一カ月ぐらい前に、ボタンが取れたから捨てといてくれって言ってたのがあったじゃないですか」
この時もボタンを引きちぎったのはバーナビーだったが、情事の時は理性がマトモに働かないのだから、どうしようもない。
それ以来、あまり虎徹の服は破壊しないように努めているつもりだ。
虎徹もボタンが取れた程度だったら直して着たかもしれないが、あの時は色々と無茶な体位で着たままやっていたから、生地も変に伸びてしまってよれよれになったりしたので、諦めたのだろう。
「へっ…あれまだ捨ててないの?」
いや、確かにそんなことを言ったようなことは覚えているが、まさかバーナビーがボタンつけ直すとか、そんな似合わないことやってないだろうな…と変に虎徹は警戒する。
「ええ。業者に仕立て直してもらいましたから、いつものクローゼットに入っています」
「………そっか、ありがとな」
確か前のシャツってたまたま見かけたセールで何気なく買ったというさしてこだわりもない品だった筈なのだが、仕立て?なんかに出したら元値超えるんじゃないかな思ってしまう。
とにかくバーナビーの機転には感謝したいので、礼はきちんと言う。
「……………虎徹さん」
もはや完全に虎徹の私服置き場となっている専用クローゼットに、シャツを取りに行こうと反対方向へ向かっている最中、呼び止められる。
振り向くと、バーナビーはまだキッチンに戻らずそこにいる。
何、どうしたの?といつもの調子で虎徹が尋ねる前に、明確な言葉が落とされる。
「あの…そろそろ一緒に暮らしませんか?」
それは―――――初めて二人の間に入った、ほころび。
BTBデビューイベント自体は問題なく終了した。
最後のダンスでワンテンポほど遅れてしまった虎徹だが、それは昨夜のバーナビーのせいでの筋肉痛やら色々なことが響いていたのかもしれない。
表面上はいつも通りに可能な限り虎徹は明るく振舞ったつもりではあったが、色々と自分のことがいっぱいいっぱいで何やらそわそわするブルーローズやいつも自分に声をかけてくれるバーナビーにきちんと答えられた記憶がない。
そんな中で、期もせず楽屋泥棒が入ったのは、バックを取られたブルーローズには災難だったろうが、虎徹には幸いした。
慣れないダンスや歌なんかよりもこうやって自然に身体を動かしていた方が、よほど気が紛れるし、今までヒーローとして破壊活動含めて活躍することが多かったのだから、慣れている。
こんなときでも以心伝心。何があるかわからないので、能力使うのはとりあえず自分だけにして、バーナビーには力の温存を頼んでおく形となる。
最初にコンビを組んだ時とは、確かにまるで違う間柄だ。
逃走した犯人は、小型バイクのくせに肺活量はそこそこあるので黒い煙を吐き出しながら進んでいるのが目印だ。
何だろう。鬱な頭の中と違って身体はどこまでも軽いような気がする。
ぐっと力を入れて、一気に加速をかけるとあっという間にバイクを通り越す。
あれ?それは自分が望んだ以上のパワーで、犯人もびっくりしていたが、一番驚いたのは虎徹自身だ。
疑問は感じたが、とにかく犯人確保が最優先であるから気にしている時間はない。
慌てて今度は逆走するが、いきなり追い風をくらったかのような衝撃を自分自身の中で受けて、最後には無残にバランスを崩す。
いつの間にか追いつかれたブルーローズとバーナビーに軽く叱責されて、挑んだ三回目のことだった。
自信満々に走り出したというのに、あと本当に一歩のところで犯人確保という瞬間に、ぶつりっと虎徹の能力が途絶えた。
それは今まで一度も感じたことのない拒絶のような瞬時の喪失―――――
思えばそれが二つ目の、ほころびだった。
それからまたたく間に数日が経過した。
結局、一緒に暮らそうとうバーナビーに言われたが、虎徹はその場で返事をしなかったし、バーナビーもあれ以来そのことに対して追求することはなかった。
本当に生活の中心がバーナビーで向こうもそうで、わずかに入った亀裂は忘れて、ただ今までと同じように、たまにセックスして泊まったりと何も変わらないように表面上だけは見せかけていた。
「虎徹くん。ちょっといいかな?」
忙しくない仕事合間の息抜きということで、虎徹が給湯室で自前のコーヒーを入れているところ、上司であるロイズに声をかけられた。
「何ですか?」
こんな場所で会うのはおそらく初めてだったが、どうやらこちらを探していたらしい。
昔なら色々とヘマやって呼び出しを食らっていたことが多かったが、今では用があるとわざわざいつも虎徹やバーナビーが待機している部屋に来てくれたりもする。
それ以外の場所で鉢合うのはなかなか初めてで、少し驚きながらも虎徹は尋ねる形となる。
「良かった…見つかって。社長がね。君と話があるそうだよ」
「マーベリックさんが俺に…ですか。バニーじゃなくて?」
意外な相手からの呼び出しに、虎徹はそのまま疑問の声を出した。
マーベリックといえばシュテルンビルトでも指折りな企業の社長であり、非常に多忙である。
いくら虎徹が会社の看板を背負うヒーローとはいえ、社内でのポディションは役付でも何でもない年俸制の契約社員に近い。
何度か激励やら表彰やらで会話をしたことはあるが、かなり体面上という関係で会ったことに間違いはないだろう。
色々とスポンサーの関係で一緒に食事などもした記憶の中では、それは大抵バーナビーと一緒であったし、自分一人?とはなかなか驚きであった。
「バーナビー君は、今別件で取材に言っているだろう?いいかい。バーナビー君に聞かれても、社長に呼ばれたとはくれぐれも言わないように」
「はぁ…」
何だか意味がわからなくて、上司相手に微妙な返事で返してしまう。
確かに今バーナビーは社内にさえいないが、そんな念押しされるほどなのだろうか首をかしげるくらいだ。
「社長室の場所はわかるね。秘書課には話を通してあるから、直ぐに向かうように」
それだけ伝えると、用件を済ませたことにほっと胸をなでおろして、ロイズは給湯室を出て行った。
後に残された虎徹は、淹れたての熱いコーヒーを何とか飲み干す結果となった。
権力者は高いところを望むというが、防犯や処々の問題の為、社長室は最上階というわけでもない。
しかし直行エレベーターはあるていど役員専用エリアに当たるので、両脇には警備員が常駐している。
一般社員にはワイルドタイガーの素顔がバレているわけでもなく、当然一度秘書室に確認の電話を入れて貰ってから使うことになった。
無駄に広そうな廊下といくつもの応接室らしきエリアを抜けると、秘書室経由で社長室に迎えられることとなる。
コンコンコン
「入りたまえ」
「失礼します」
両開きの取っ手が付いている良質な木の扉を開くと、そこには片手ほどだが訪れたことのある社長室があった。
もちろん眺めはそのへんのレストランなどより相当良く、周囲にはアポロンメディア社以上の高さを誇る建物がないので邪魔をするものはない。
虎徹は広くとられた応接ソファーに座ることを促された。
ただの社員のはずなのだが、これじゃあ客扱いだなと苦笑する。
「いやあ、忙しいところすまないね」
マーベリックは最初に会った時から変わらずの余裕を見せている。
「いえ、そちらこそお忙しいのでは?」
「そうだね。君たち二人がヒーローとして活躍して、良い宣伝を担ってくれているおかげで、色々と新しい仕事が舞い込んで来て忙しいのは事実だ」
はっはっはっ…と寛大に笑う姿をマーベリックは見せた。
「はあ…それは良かったです。それで、お話というのは?」
この口ぶりだと最悪の想定であるクビ宣告を受けるわけではないのだなとわかったが、それでも何か嫌な予感がして仕方ないので、どこか曖昧模糊だ。
天気の話などから始まる回りくどい営業トークに虎徹は慣れていないので、早く本題に入って貰いたくて失礼だとわかっていても、そう切り出した。
「ああ、そうだったね。実は個人的な事で申し訳ないのだが、君に頼みたいことがあって今日は来てもらったのだよ」
「個人的な事?」
さて何だろうと相当わからない。
プライベートな話など一度もした記憶はないし、今まで社長と従業員という関係からびた一文も変わりなかったはずなのだがと謎がる。
「他でもないバーナビーの事なのだが、君は仕事上のパートナーではあるがプライベートでも仲が良いと聞いてね」
そこまで言われてぎくりっと虎徹は肩を震わせた。
自分たちの関係がまさかバレているとは思っていないが、確かに仕事の上でも相当仲良さそうに周囲からでも見えるのかもしれない。
マーベリックはバーナビーの育ての親でもあり後見人でもある。
成人したとはいえ、色々とバーナビーに気を使っているという話は節々に聞いている。
「確かに、まあそれなりに仲が良いかもしれませんが」
とりあえずあまり詮索されて良いものでもないので濁しておいた。
前のように仲が悪いよりは良い方がまだいいだろうという程度に。
「私は驚いたのだよ。あの子はずっと両親の復讐のためだけに生きてきたから、今まで友達と呼べる相手も作らなかった。でも君とはうまくやっていると聞いて、なんだろうね。もう家族が誰もいないから、君のことは父親か兄みたいに思っているのかもれしない」
幼少のころからバーナビーを見てきたとはいえ、マーベリックを単純に父親と思うには少し無理があったのだろう。
それが復讐を共に遂げて横にいるパートナーというのは初めて出来た身近な存在だったのかもしれないと思う。
「………そう…かもしれませんね…」
マーベリックの言葉が重くのしかかる中、なんとか虎徹は言葉を返す。
言われなくてもそんなことはわかっていたつもりだった。
しかし、本当にそうだったと言えるだろうか。
バーナビーは家族愛に飢えていた。
寂しい寂しい兎だと最初に比喩したのは自分だったというのに、忘れてしまったのだろうか。
そう…たまたまなのだ。
たまたま自分はパートナーだったから、バーナビーの復讐に協力することも出来たし、隣に居た。
ただそれだけ………当たり前のことしか虎徹はしていない。
もしかしたら、バーナビーの横に居たのは他の人間であったかもしれないほど、ただの偶然で、これは自分で選んだ道ではなかった。
前の会社を解雇されて、たまたま拾われた会社で、たまたまコンビを組んで。
それが運命だとか思うほど虎徹も若くなかったし、ロマンチストでも何でもなかった。
そうして目の前に転がり落ちている結果は、どこまでも自分を好きになってくれて愛してくれて尊敬してくれて盲目になったバーナビーだ。
それが愛とか恋とかのくくりだけの世界ならば、それでもいいのかもしれない。
しかし、かたや自分は妻と死別しているとはいえ既婚者で娘がいて、かたやバーナビーはまだ将来有望で文句の付けどころもない若者だ。
初めから住んでいる世界が違ったのだ。
ほんの少し触れ合ってしまって、自分と違うものを持っている相手だからこそ、好きになってしまっただけ………
「…大丈夫かね。どこか具合でも悪いのかい?」
視線を落として暗い顔をしている虎徹を見て、マーベリックは訪ねてくる。
「いえ、すみません」
「いや…面倒なことを頼むと思っているよ」
そう言いながら、マーベリックは横に置いていたいくつかの書類の束を虎徹の前に持ってきた。
豪華な装丁なわりに、中から出てきた書類は経歴書の羅列だった。
続いて大判の厚紙に印刷された清楚なドレス姿の女性の写真が出てくる。
「この写真の女性…どう思うかね?」
「は?………えーと、綺麗な女性だなと思いますが」
ぴっと指示された写真の感想を言えと言われても、虎徹にうまいボキャブラリーがあるわけでもない。
ただ女子高生のブルーローズよりは幾分大人びた印象の着飾った女性が、写真の向こうで微笑んでいるように見えただけだった。
「彼女は代議士の娘なのだがね。私も何度か会ったことがあるのだが、とても良い娘さんなんだよ」
「はあ…」
ここまで言われてもなぜこんな状況なのか、全く虎徹には理解できなかった。
正直、頭の中が混乱していて、色々とそれどころではなかったというのが正しいだろうが。
「どうだろう。バーナビーにお似合いだと思わないかね」
回りくどく言われていたわけではないかったが、ようやくここで、はっと気が付いた。
バーナビーの縁談話という存在が、どこか遠くの出来事のように耳に入ってくる。
「別に必ず彼女とバーナビーが付き合って欲しいというわけではないのだがね。こういった話を何度かしても、全く興味がないらしくいつも軽くあしらわれてしまうんだ。両親の復讐を遂げたのだから、そろそろバーナビーも自分の幸せを探してもいいと私は思っている」
遠い場所を見つめるようにマーベリックは言う。
「………それを…俺からも、バーナビーに伝えてほしいということですか?」
鏡が欲しいと思った。今、自分が苦々しい顔をしていないか確認するために。
バーナビーの良き相棒として年長者として、相応しい表情がつくろえないほど虎徹の心はどこまでも揺らいでいた。
座っていなければ、足ももたつくほどに頭がぐらぐらとふらつくのがわかるほどに。
「君の話なら少しは聞いてくれると思ってね。君もバーナビーには幸せになって欲しいと思っているだろう?」
そうしてマーべリックはどこまでも確定的な言葉を落とす。
それは、マーべリックが虎徹の雇用主だとかそういった立場で覆せるような単純な関係ではなくて。
「はい」
それだけは淀みなく虎徹は返事した。
そうして、きっかけの一つであったほころびが完全に崩れた。
思い出が詰まりすぎていると片づけるのは非常に難しい。
それでも、虎徹は一人。バーナビーの家で自分の私物をまとめていた。
あまりにも今まで自然にいすぎていて、クローゼットから冷蔵庫の中まで、さまざまな場所に虎徹の私物が浸透していた。
戸棚を一つ開ける度に、ああ…こんなところにもと小物を発見してしまう始末だ。
共用で使っていたものなどは何とか割り切って、捨てるなりしてもらおうと思うしかなかった。
手早くすませるつもりだったのに、意外と時間がかかってしまった。
大手の革製ボストンバックに荷物を詰め込むと最後に、マーベリックから預かったあの女性の写真と書類が入った封筒をパソコンデスクの上に置いた。
どうしても、自分の口で説明できないのは申し訳なかったが、分かってくれるだろうと思いたい。
改めて見回してもバーナビーの部屋は広い。
こんなに広かったっけ…と、いつもは気にしないことまで気にしてしまうのが嫌になった。
ガチャリッ…
自分が開けたわけではないのに突然扉が開いて、虎徹はびくりっと無意識のうちに全身が震えた。
「………バニー…どうして………仕事は?」
今日のバーナビーはファッション雑誌のインタビューという仕事の真っ最中の筈で、それを見計らってこうやってやって来たというのに、どこまでも戸惑う。
「貴方の姿が見えないから、抜けて来ました」
そう淡々と言いながらも、バーナビーの表情は最悪だ。
こんな酷い顔を見たのは随分と久しぶりかもしれない。
「今すぐ戻れ。何考えてんだ…」
今日のインタビューはコンビとして二人まとめてではなかったため、ロイズさんに頼んで遠慮してもらったというのに、逆効果に表れてしまったことに軽い頭痛を感じる。
前はこんなふうに我が侭ではなかった筈だ。
常にスマートに仕事もこなして…別にそこまで虎徹を必要とはしていなかった。
いつから…どこまで………こうなってしまったのだろうか。
「嫌です。貴方がいないなら意味なんかない…どうしてそんなこと言うんですか?それに、その荷物は何ですか?」
目ざとく虎徹の横にある荷物を見つけて詰問口調になる。
その中身など既にバレているのだろう。
バーナビーは元々インテリアや小物をそれほど置くタイプではないからこそ、フロアにある虎徹の私物も全部見当たらないのだから。
「………………………」
答えられない。何も言うことは出来なかった。
ただ、少しの罪悪感に苛まれて、目線を床へと落とす。
「もう、ここには来ないということですか?」
口調はどこまでも丁寧ないつもの言葉なのに、声のトーンは何段階も落とした、鋭い指摘が突き刺さる。
「…そうだ」
苦々しくも確実にその言葉を伝える。
そうなのだ。一旦バーナビーと離れよう…そう思って来たというのに、本人を目の前にして揺らいでいる自分がいる。
表情は変えぬまま、つかつかと無言でバーナビーは歩き、すっと虎徹の横をすり抜けた。
パソコンデスクに置いてあったA5サイズがすっぽり収まる茶封筒を持ち上げると、ぱらりと中身を確認する。
「マーベリックさんの差し金ですか」
軽蔑するように、ばさりっと写真も書類も床に投げ捨てて言う。
微かにその存在を認識する程度の、1ミリとも心が動きもしない内容だった。どうでもいい。
ただバーナビーにとって心を動かすのは、虎徹の存在以外しかなかったのだから。
「マーベリックさんは、お前のことを心配してだな」
あの時のマーベリックの言葉は嘘偽りなど感じなかったから、本当にバーナビーの今後を考えての行動なのだろう。
それは虎徹にも十分わかった。だから…
「余計なおせっかいです」
考えるだけ無駄というくらいの切り方で、虎徹の言葉をもバーナビーは吐き捨てる。
「ずっと世話になってきた人だろう?そんな言い方は…」
「僕はもう子どもではありません。自分のことは自分で決めます。大体、こんなものぐらいで、貴方は僕のことが信じられないのですか?」
続いて虎徹に向けられる追求は厳しかった。
「違う。そうじゃない!ただ、もう俺はお前の隣にいるには相応しくないと思ったんだ………」
実際問題、それはただのキッカケの一つにすぎなかったが、パズルのピースが全て当てはまるように重なってしまった言葉を出す。
「どうして?今まで通りで十分じゃないですか」
少し皮肉った笑いさえ見せて、バーナビーはそれを望み続ける。
「………楽屋泥棒を捕まえた時、俺の能力おかしかっただろう?あれは単純なパワーアップじゃない。俺は能力開花してから30年近く経過していて、ヒーローである限り能力を使い続けていた。だから、衰えて来ているんだ。わかるだろう?そのうちヒーローを辞めなくちゃいけない。いつまでもお前の隣にはいられないんだ」
NEXT能力はまだまだ未知数だが、虎徹は自分の身体の事は一番自分がわかった。
きっと、もう駄目なのだと直感的に降りかかってきた。まるで神のお告げのように。
楽屋泥棒を捕まえた後も何度か仕事で能力を使ったが、そのうち誤魔化しきれなくなるだろう。
そうなる前に、自分自身で終止符はつけるつもりだった。
「なら、もし僕の能力がなくなったら貴方は僕を見捨てるんですか?」
虎徹の発言に全く動じずバーナビーは疑問をぶつける。
「そうじゃない。そうじゃないんだ………俺と、お前では立場も年齢も何もかもが違いすぎる。だから俺じゃなくて、もっと外を見て欲しいんだ」
身を引くとかそんな綺麗な話ではなく、ただこのままではどこまでもバーナビーの為にはならないと虎徹は思った。
単純に考えただけでも、自分の方が先に死ぬだろう。
今まで殻に閉じこもっていたバーナビーに世界を見て貰うことが、自分の努めだと思った。
「そんな…立場だとか年齢だとか、僕の努力じゃどうにもならないものを並べて………どうしても僕が隣にいるのが嫌なんですね。僕に貴方を愛する資格はないってことですか?」
堅く握ったバーナビーの両手は心から響く怒りから震えていた。
「悪いと思っている。だが、もう決めたんだ」
戻って来るつもりはないと…と暗に告げた。
この長いようで短かった10ヵ月はとても幸せだった。
幸せすぎてぬるま湯に漬かってしまったかのように流されてしまった自分を虎徹は叱咤した。
おそらくバーナビーにとっては初めての恋愛だったのだろう。
これで、終わりでいいと思った。
それはバーナビーを愛しているからこそ、下した決断だった。
「嫌…です。僕は、もう貴方と離れて生きて行くことが出来ない!」
いつものプライドも何もかもを投げ打って、バーナビーは大声を出した。
「じゃあ、どうする。力ずくで止めるつもりか?」
瞬間にバーナビーのハンドレットパワーが発動したことを虎徹は悟った。
いつ出撃要請が来てもいいように、温存するようにされている能力を殴り捨てたのだ。
バーナビーの悲しみの瞳の中で、能力使用特有の青白さが混じりいる。
「そんなことをしても、貴方はもう僕の求めていた虎徹さんじゃない。だから、こうします」
くるりと後ろを向くと、一面のガラス窓と対面した。
ガラスの向こう側で一瞬だけ、バーナビーと視線が交差したような気がして。
「やめろ!バニー!!!」
的中してしまった嫌な予感を払拭するように、虎徹は叫んだが間に合いはしなかった。
最初に響いたのは僅かなガラスの割れる音だったが、次に舞い込んできたのはどこまでも響き渡る轟音だった。
バーナビーはハンドレットパワーを最大限に使い、窓ガラスを割ったのだ。
直ぐに局地的だった小さなヒビが、バリバリと嫌な音を立てて広がる。
何よりも恐ろしいのは豪風だ。
高層に当たるこの部屋の、パソコンも椅子も壁紙も何もかも飲みこまれるように、吸い出されていく。
辛うじて、バーナビーは骨組みとなっていたガラスの縁に片手だけ捕まっているが、その手はガラスを割った衝撃で血にまみれて、にじむ赤が滴り落ちる。
その状態を続けられるのもハンドレットパワーが発動しているからで、効力が切れてしまったら風圧で外に放り出されるのは間違いなかった。
「バニー!冷静になれ。話合おう。俺も、ちゃんと考えるから!」
あまりの風のうるささに叫ばなければ到底聞きとることは出来ないというくらいだった。
そんな中でもなんとか思いとどまらせる為に虎徹は声を張り上げる。
このままでは…最悪の結果しか待ちうけないだろう。
こっちこそ力ずくなどするつもりはなかったが、しかし…
風の影響を受けないように体勢を低くしていた虎徹だったが、瞬時に自身のハンドレットパワーを発動させてじわりじわりとバーナビーに近寄って行く。
変に刺激してもし彼が手を放したらと思うと、ぞっとしながら。
何とかにじり寄って、バーナビーの腕を掴む。抱きしめる−−−
「そうやって貴方は、僕を助けて殺すんですね」
二人とも能力が発動しているとはいえ、今は単純に虎徹の方が力は強い。
それさえあれば簡単にバーナビーを引っ張り上げられるだろう。
でも同時に力ずくのそれは、バーナビーの心を壊すことにもなる。
「お前は…どうしたいんだ?」
こんな事態に陥ってしまって、バーナビーを救う方法を模索しても思いつかなかった。
もう虎徹にバーナビーの心は救えない。
どこまでもすれ違い、交差することはなかった。
「もう何もかもが遅いんです。たとえ貴方がこれから先、僕を愛してくれたとしても、それは同情込みでしょ?そんなものいらないんです…だから………放して下さい」
虎徹に選択をさせるために、わざとバーナビーは抵抗しなかった。
一度誤ってしまったことを覆す事が出来るほど、バーナビーの心は強く出来ていなかったのだから。
両親が亡くなって復讐を遂げて、バーナビーの世界の中心は虎徹になった。
それは、新たな自分の未来や希望さえも凌駕する出来事だった。
バーナビーにとって虎徹は、世界の色が変わった時に助けてくれた人。変えてくれた人で。勝手に理想像を作り上げて、こうあるべきと決めつけすぎていたのだから。
これからは素晴らしい日々だけ待ち受けていると思っていたのに一瞬で砕けてしまった。
自分の全てを包み込んで受け入れてくれた虎徹はもういない。
愛してしまったことが間違いだったのだろうか。
だけど、もう虎徹でなければ駄目なのだ。
それなのに、否定されてしまい、生き続けるのは何よりも辛い。
もう取り戻すことも出来ない過去にだけ生き続けて、どうしようもない世界で生きていたのだから。
一度でも向けてしまった疑惑を払しょくは出来ないからこそ…望んだままに死なせてほしい。
虎徹の絶望の表情だけを最期に瞳に焼き付けることを切望した。
「………わかった、バーナビー」
能力を使って強く強くバーナビーを抱きしめる虎徹は、全てを悟った。
たった一つの行動から、何もかも取り返しがつかなくなってしまったことを。
それはこの10ヵ月間。自分が甘んじてバーナビーと接してしまったせいだということも、何もかも。
バーナビーだけが悪いということは絶対になかった。
もし、ここで一時的にバーナビーが死ななかったとしても、これから先の未来は必然的にないと思ったのだ。
だから―――――
虎徹は、バーナビーがガラスの境界を握っていた手を無理やり取り外させた。
それは単純に助ける為の行動ではあったが
「ごめんな………だから一緒に行こうか…」
それはほんの一瞬の出来事で、事態はバーナビーの思惑とは逆方向へと動いた。
虎徹はバーナビーを抱きしめたまま、自分もろとも…窓ガラスの向こうの世界へとぐらりっと身体を傾けた。
まるで夢の世界のようにふわりっと浮いたような感覚。
驚愕の瞳をしたバーナビーを見ることもなく、呆気なく。
もはや声が出せるはずもない。
声にすらならない叫びとなった、そのバーナビーの心は、虎徹に届くことはなかった。
ただ、しっかりと抱き合って放り出されたはずの二人の身体は、その戸惑いのせいで空中で引き離れた。
その光景を見たのは誰もいなかった。
違
う
こ
ん
な
こ
と
を
僕
は
望
ん
で
い
な
い
・
・
・
・
・
「キャーーーーー!!!!!」
「…っおおい!何か…落ちて来たぞ!っ……まさか人間なのか?」
地表では金切り声と騒ぎ立てる人々の、異常なざわめきにまぎれる。
幸いそこに歩いていた人間を巻き込むような最悪の惨事にはならなかったが、それでも想像を絶する光景が目の前に繰り広げられていた。
その肉塊は、まるで人形のように、ぐしゃりと悶絶する音を立てて落下し、何度かバウンドした後にようやく止まった。
服装から辛うじて成人男性とおぼしき様子が見とれるだけ。
落下の衝撃で、肢体の背骨やありとあらゆる骨は崩れ有り得ない方向を見せつけている。
左腕は肩から千切れて根こそぎ外れて、これも変に折りたたんだ形となって、元にあった身体より数メートルのところへ吹き飛んだ。
もう一方のだらりと伸ばされた手は何かを掴んでいたかのように硬直したまま。
腹部からのおびただしい出血は、まるで絞り取ったかのように鮮烈にどこまで深い赤から黒へと示す。
こきゃりと曲がった首の上に乗っていた筈の頭蓋骨は、完全に陥没して窪みがコンクリートの上に叩きつけられた凄惨を示していた。
カラスが群れをなして死体を狙うように集まり、カアカアと鳴く音が響く。
「…ひでぇ………これじゃあ…もう………」
皆がその死体を野次馬根性で取り囲んだが、誰も応急処置をしようとは思わなかった。
何をどう見てもこれは…目をそむけるように視線を外す。
通行人の一人がすぐに携帯電話で救急車を呼ぼうとしたが、それさえもためらうような無理を感じた。
場所を確認しようと、空を見上げるが飛行船などは見当たらない。
風に流されて、目の前のビルから落下したとしか思えなかった。
「おいっ!あそこに人が、引っかかっているぞ!!一人じゃなかったんだ」
人が集まり始めた最中、指を差して大声を張り上げる男がいる。
ビル周辺の緑化設備として周囲には大きな木々が立ち並んでいたのだが、ちょうど一番の大木の枝に、人間らしきものが引っかかっているのが見えたのだ。
「しっかりしろ!」
どうやらこちらは辛うじて無事らしく、生きているだけと言うカテゴリーの中でだが、ぴくりと指が動いているのが見える。
「殺してくれ」
「無理にしゃべるらなくてもいい。今、救急車を呼ぶからな!」
辺りのざわめきはどこまでもうるさかったが、それでもその人間が何かしゃべっているように見えた。
だが、あまりにも遠くか細い声だったので、誰も聞きとることが出来なかった。
そして
後に残されたのは、本人の意思など関係なく機械で生かされているだけの、男ただ一人