虎徹にとって二人目の娘は、孫ほど歳が離れることとなったが、そんな事を微塵も感じることがないくらいに幸せだった。
最初こそは相手が相手であるし、親子ほどの歳の差婚で周囲に危惧されたりもしたが、直ぐに新たに授かった愛娘の育児や成長に追いついて行くに精いっぱいで、いつのまにやらそんな障害も無縁のものとなっていた。当初、突然の父親の再婚に驚いていた最初の娘である楓も、今となっては結婚をし、父親の再縁を受け入れ、よく顔を見せに来てくれる程だ。最終的に周囲には溢れんばかりに祝福をされ、この平穏な幸福がいつまでも続くのだと、最初に抱いていた憂慮も全てが薄れたのだと虎徹は、そう…思っていた。その曇りは元から存在していたのに、ただ見えていなかっただけなのだとその頃は気がつかず。
そうして…虎徹もあっという間に歳を取り………二度目の結婚から数十年が経とうとした時、またの転機を迎える。
思春期を迎えた娘が…付き合っている人がいると、言って来たのだ。ついにとうとうその年齢になってしまったのかと感慨深いながらも、心に染み渡った。確かに最初の娘である楓も随分と前に結婚しているし、彼氏彼女とかそういった若い話を聞いていたこともあったが、別々に暮らしていた為…若干何でもかんでも事後報告気味だった。結婚の報告こそは体裁を取り繕われたが、今まで側に居てやれなかったのだから、それは仕方ないと思っている。だからこそ、今回が初めて最も重く受け入れることになった事態だったのかもしれない。
昔こそは娘を激愛し、絶対に嫁になどやらん!一生うちに居ればいい!などと頑固おやじ的発想があったが、今は時代の変化に身を任せ、娘が選んだ相手ならばきっと良い相手だろうと好きにさせるくらいの心構えが虎徹にはあった。
そう、だから…忘れていたのだ。平和すぎるからこそ、それがとうの昔からくすぶり続けていた火種だったということを。
「あれ…バニー?」
それは、ちょうどサンルームに洗濯物を取り込みに行こうとしていた最中だった。行き先の通路の廊下という場所に位置する娘の部屋の前を通りかかると、完全には閉じられていない扉の向こうにバーナビーの姿を見たのだ。虎徹にとってそれは、あまりに驚く事で一瞬幻かと思ったくらいだった。
バーナビーからすると、虎徹の娘は彼の実の孫にあたる。それは虎徹が再婚した妻がバーナビーの娘であるからなのだが、年齢から考えるとかなりちぐはぐだ。元々オリンタルタウン出身の虎徹は昔から童顔であるとはいえ、今も年相応の年齢とは思えない。そうだとしてもバーナビー相手では、そのあべこべは簡単には払拭出来るものではなかった。
「どうしたんだ。こんなところで…」
疑問付きで娘の部屋に入った虎徹は、バーナビーに声を投げかける。
この家は虎徹が新しい妻と結婚してから買った一戸建て住宅だ。本来ならばバーナビーもその妻と暮らしている筈なのだが、早くに死別したせいで、独身貴族に戻ったかのように仕事場に近い高級マンションで一人暮らしをしている。だから完全な鏑木家の一員というのは若干の語弊があるといっても過言ではない。
そのバーナビーが、我が家にやってきているということ自体を虎徹は知らなかったのだ。それで驚かない方がおかしいというものだろう。予め妻や娘に言ってあるというのも無理があった。二人はそれぞれ朝から用があって出掛けると皆が揃った朝食の時に言っていたのだから。
「忘れ物をしたので取りに来たんですよ」
さらりとそう言葉を出しながらも、バーナビーは娘の部屋の戸棚の引き出しを手慣れた手つきで開いた。
「忘れ物?ここ…誰の部屋だかわかっているんだよな?」
なんのことだかさっぱりわからず、虎徹はその言葉を反復し、疑問を付け加える。まるで質問をしている虎徹の方がおかしいみたいな雰囲気だった。
「ええ、だから僕に言って来たんですよ。出先で気がついたそうですけど、コンタクトの予備を忘れて来たから持ってきて欲しいって」
淀みなく言葉を並べながらも、化粧品や衛生用品が並ぶ一角から使い捨てコンタクトレンズが入った箱を取り出す。虎徹でさえあまり馴染みのない使い切りタイプのコンタクトレンズケースだ。
「ええっー!わざわざバニーに連絡って、俺が家に居るんだから、家電に電話すればいいのに」
今度はバーナビーより、突飛もない娘の行動に虎徹は盛大に驚いた。確かに確か泊りがけで出掛けるとは朝言っていたから、予備のメガネは持っているだろうが、使い慣れているコンタクトレンズの予備がないと不自由を強いられるだろう。だからと言っても、まさか一緒に住んでいるわけでもない祖父のバーナビーに頼むとは想像を超えている。
「虎徹さんがわざわざ旅行先のホテルに届けるより、一緒に居た僕が取って来る方が効率いいのは当たり前じゃないですか」
それは、至極当然の事だとすました顔をしながらバーナビーは言葉を向けた。
「は?」
虎徹は、バーナビーが言った言葉の違和感を直ぐには理解出来なかった。
今、バーナビーは何と言った?娘と一緒にホテル?そんなことは今まで一度たりとも虎徹が知りえなかった情報だ。確かに今朝、娘は泊まりで出掛けるとは言っていたが、その相手が誰だとは言わなかった。いや、確認するまでもない。学校やクラブの友達だろう…と高をくくっていたのだ。その相手がバーナビーだとは知る由もないし、ましてや想像上に浮かべるだけでも皆無だった。
「えーと、他に誰が一緒なの?」
この時点でもまだ虎徹の頭は正常に動く筈もなく、出てくる声はいつものような軽い口調だ。
妻の今日の予定は、娘とは完全に別件だと前々から聞いている。その親戚含めた家族旅行にもしかして自分は仲間外れにされてしまったのかとも思いながら、恐る恐る尋ねる格好になった。
しかしバーナビーがもたらした返答は、そんな生ぬるい物ではなかった。
「二人きりですけど、何か問題でも?」
バーナビーは娘の机に利き手を慣れた様子で起き、コンタクトレンズケース片手にこちらを向きながら言って来た。初めて二人の視線が直線上に繋がった。
「……………」
そうして虎徹は言葉を発する事が出来なくなってしまった。
問題はない…いや、ある。娘とバーナビーの続柄は直系親族で、はたからみればギリギリ想定内なのかもしれない。だが、父親である虎徹にも何も言わずにということに関しては単に納得出来るものではなかった。
けれども、その妙に不快な気持ちよりも、バーナビーの態度の方が数倍…虎徹には覚えがあったのだ。それは数十年前の…バーナビーが結婚する時の式場で、あの待合室で味わったのと同じ空気を纏って。
「虎徹さん、もしかして何か勘違いしていませんか?おかしいな………彼氏が出来たと虎徹さんに伝えたって僕には言っていた筈なのに」
今度こそ本当に虎徹は目を見開いた。まるで目の前にいたはずのバーナビーを存在しているのさえ見えなくなってしまったかのように、刮目するのだ。
「お前、自分が何を言っているのかわかっているのか!あの子は………お前の孫だぞ!?」
もし本当にバーナビーがあえて言わず含んでいる言葉を全て繋げると、曝け出される真実はどこまでも異端だ。断じて許されるものではなかった。もはや想像の範疇にないその出来事さえ笑って飛ばせないのは、過去のバーナビーの所業が今になって思い出されるからで。
「違いますよ…孫じゃありません」
少し困った様子で少し背の低い虎徹を見下ろしながら、淡々とバーナビーは否定した。
「だったら何だって言うんだ!」
今更の大前提を拒絶するかのようなバーナビーの言葉に、罵りさえ交えて声を荒げる。もはやこれから先のバーナビーの言葉を全てが諫言だとしても受け入れる気さえないと示す様に怒りしか湧き立たなかった。
「あの子は、僕の孫じゃなくて………正真正銘、実の娘ですよ?」
改めて教えてくれるかのように、バーナビーは虎徹に淡々と言葉を告げた。
「そんなわけあるか!あの子は、妻と俺の……」
「本当にそっくりな子ですよね、この僕に…」
虎徹の粗ぶる言葉を途中で遮りながら、バーナビーは自分の顔に軽く指を向けた。
そこまで言われて…虎徹は冷静にはなれず、声が出なくなった。
娘の顔が鮮烈に焼きつけられるのは、ここが娘の部屋でバーナビーをも含めた家族写真が飾られているからだろうか。そう………娘は…誰から見てもバーナビーに似ていた。元々妻であるバーナビーの娘も、性格を除けばバーナビーの女性版と言っても過言ではないほど顔立ちが似ていたのだ。柔らかい金の髪と透き通る緑色の瞳。ブルックスの象徴的な遺伝子を持った可愛い娘にも恵まれ、幸せだった。そのさらにまた娘が母親に、そしてそれに連なるバーナビーにそっくりだとしても、そういうものだろうと自然に受け入れるのが当然だと思っていた。
だから、まさか………そんなことを思いつく筈もないだろう。だって、虎徹がバーナビーの娘と結婚すると伝えた時、バーナビーは確かに何も言わなかったのだ。否定も肯定も。その気持ちは父親としては当然だったし、虎徹も同じ反応をしただろうという自信さえする。ただ、大前提に…バーナビーは昔から虎徹を好きだったということを失念していたのだ。
もう…勝手に頭の中が自分とバーナビーの娘である妻の結婚式へと遡る。そうして迎えた結婚式が滞りなく終わって直ぐに娘が産まれたとしても、幸福以外の何かの感情を持てと言われても無理がある。そんな、日常を過ごし続けてしまったのだ。
「虎徹さんの性格から考えて、婚前交渉は絶対にしないと思っていましたから。一応、どちらの子かな…って思ってきちんと調べてありますから、安心して下さい」
それは…義理堅い虎徹をどこまでも突き落とす決定的な言葉だった。
バーナビーは笑った。この状況で笑えるほどなのだ。言わずと知れた確信が口元に浮かんでいるのを見せつけられる。
「そ、…んな…」
もはや立ち続けているのにも困難を感じ、ぐらりと身体が揺れるのを何とか壁に手を付き阻止するのがいっぱいだった。かわいい孫娘を前に、バーナビーは大人しくなったのだと、狂気は終わったのだと思っていた。
「別にそれ事態は、虎徹さんのせいじゃないですよ。でも………どうして僕の娘たちって…僕の気を惹くのに必死なんでしょうかね?もしかして僕が虎徹さんを模倣して娘が欲しいと渇望したせいかな。元々僕は子どもが出来にくい体質だったはずですけどさすがに、子を為した子との相性は良かったみたいですね」
それだけは本当に疑問らしくバーナビーは頭を軽くひねる動作さえ付け加える。何をしても今の虎徹には逆効果だとわかっているのかさえ理解したくない。それなのに、妻も…娘も………あくまでバーナビーの愛情が欲しくて気を引きたくてと解説してくるのだ。
「まあ、僕と結婚できないなら虎徹さんを求める気持ちはわかるといえばわかりますけど。僕の子どもなんですから虎徹さんを好きになるのは当たり前なんです」
そう…虎徹には、はじめから味方なんて誰もいなかったのだ。まるで娘たちを道具の一環のような気持ちの流れだけをバーナビーは口にする。純血の花嫁は、壊れてしまっていた。もう、以前のような関係には戻れないのだと物語る。
「俺…は………妻を、………愛して、」
自分の気持ちは自分だけのものだと思っていて、それを確証だと思いたくて、途切れ途切れでも何とか虎徹は言葉を捻り出したが、それ以上言葉が続く筈もなかった。現在進行形も過去形ももはや最初から許されていなかったとしたら、地を立つ資格さえ喪失してしまうから。もはや妻を愛していることさえあやふやになろうとしていた。父親であるバーナビーには申し訳ないと思ったけれど…最初のキッカケは確かに情が沸いてしまったことだった。それが年甲斐もなく恋愛感情になったのだと錯覚していたのだとでもいうのだろうか。
「始めから僕を選ばなかったのが悪い…虎徹さんが、最初に僕を裏切ったんだ」
「違う!だって、俺は…お前を愛していない!!だから、裏切ってなんか………」
バーナビーの好意を突っぱねて、知らないふりをして生きて来て、ようやく落ち着いた。再婚して…その内に秘め足るものなんて、忘れようと思っていたんだ。そのツケが今、やって来てしまった。
「だから…限りなく僕に近いDNAを持った女性なら、また愛してくれますか?別に娘じゃなくて孫でも誰でも一緒ですよ。また産まれる子は、きっと女の子ですから。これで貴方は一生………いえ、たとえ死んでからだとしても、僕からは逃げられない…だって虎徹さんってそういう人ですよね?」
連鎖は続く………虎徹は最初の道を間違えたからこそ、もうバーナビーに連なる系譜からは逃れられなかった。最終的に産まれる子は、確かに寸分の違いもないバーナビーなのかもしれない。バーナビーの分身なら…いつか愛せるのだろうか。
「何度でも、お前はこれを繰り返すつもりなのか…」
確かに全てが壊れていたとしても虎徹自身が壊れたとしても、もう逃げ出せる環境ではなかった。それほど根強く妻と娘はバーナビーを介して虎徹の心に深く浸透し続けてしまったのだから。
「ええ、だからそろそろ思い直して下さい。僕は違います。僕だけは本当に貴方を…」
もはや立ちつくすしか能力のない虎徹に抱きついてくるバーナビー。ぎゅっと抱きしめられても、もはや虎徹に湧き立つ感情などあるわけもなかった。
ただこの連鎖を打ち切る方法も思いつく筈もなく。
(もしあの頃に戻れたら、それでも虎徹は………バーナビーを愛せるとは、とても思えなかった)