突然やってきた初診のバーナビーの、次に予約した診療日。
案外普通な様子で時間通りに、きちんと訪れた。また白い診療台の上へお出迎えだ。
今度は虫歯になっている歯を重点的に検査することにする。
治療方針が決まったのだから本当はこの虫歯も早く引き抜いた方がいいのかもしれないが、歯はそろっているものでバランスを保っているのだ。そこで一本でも抜けるとたちまち空いた場所に左右の歯が崩れて来てしまい、歯並びが悪くなってしまう。今日は簡易的な痛み止めの薬を出して少し我慢して貰おうと思う。
通常は、引き抜いた後は簡易ブリッチをしてもらう形となる。本格的なブリッチは両方の歯を削り、金属製の器具で固定する。これも、なかなか安定性に問題がありなので、ヒーローをしているバーナビーに対する手段としては考えものなので悩む。
一番良いのは駄目になってしまった歯を引き抜いて、直ぐのインプラント手術が理想なのだが、なんといっても歯を抜いて見ないとインプラント自体を作るのも困難だ。虎徹は技工士ではないので馴染みの外注作って貰うという形になり、最終的な形は削って虎徹が仕上げの研磨だけは作り上げる。なるべくなら他の歯との違いがないように気を付けるつもりだが、これがまた随分と時間がかかる。技工士に頼むのも1ヵ月程度。
そもそもレントゲンだけでは精工には間に合わないので、別途CTスキャンも頼まなくてはいけない。これも保険がきかないので恐ろしい値段がするのだが、そのあたりだけの心配はしなくていいのが唯一の幸か。あ、バーナビーは確定申告してそうだから医療費控除の説明もしないとなと、頭をついでに巡らせた。
しかし、なんだ…なぜかバーナビーからの視線が異様に痛かった。
治療の際、その様子を見せないように顔には布をかけてしまう歯医者もあるようだが、虎徹のポリシーとして患者が痛かったりする表情を見逃さない為に、そのままにしている。バーナビーでは、もし痛かったとしても手を上げたりするようなタイプではないからこそ、尚更だ。
だからバーナビーにはずっと上を向いた状態で寝て貰っているのだが、普通…ライトとか天井とかそういった無機質なところを眺めている人が多いと言うのに、やたら視線が絡み合うのだ。
いや、これは虎徹自身もいけないのだが。本来ならば、虎徹はバーナビーの歯を見なくてはいけないのだから、視線が合うことはないはずなのだ。しかし、ここまで整ったハンサムが目下にいるとなれば気になるということぐらいは少しわかってもらいたい。
そんなこんなでようやく終わった。なんか疲れた。最後の口を濯ぐことを何気ないように促す。
治療の方はそんなこんなの繰り返しでバーナビーと話合いながらも確実に進んで行った。極めて順調だ、問題ない。
初めてバーナビーが来てから3カ月ほどしてようやく叶ったインプラント手術日。
通常の医者の大手術の簡易版という感じではあるが、バーナビーの仕事の方は1日休んで貰い、もちろん手術同意書の持参。雑談を踏まえながらもリラックスをしてもらって、血液検査から始める。当日の検査に問題がなければ、そのまま特別の手術台へあがって貰う。指にはめるタイプの脈は常時測定されていて、あの病院独特のピッと鳴る音が断続的に示され続ける。
今日ばかりは一人で手術は出来ないので、歯科学校時代の同期にヘルプに来て貰った。こいつも口が堅い方だから平気だ。バーナビーに対して軽く会釈ぐらいしかしなかったので、客商売としては玉に傷だが、性格だろう。
もちろん麻酔はするが、あくまで顎全域にするだけだから、意識が吹っ飛ぶとかそういうわけではない。ただ手術中1時間ほどはずっと口を開け続けなくてはいけないが、それは何度も訓練?のように口を開け続けさせたから大丈夫だろう。
そうして手術は無事に成功した。出血だけは簡単には止まらないのでいくつかの薬を出す。24時間程度経過しても出血が止まらなければ連絡をするようにと、それと今後は粒の入った歯磨き粉は駄目だからなーと軽く忠告をして帰す。ほっと一息。
しかし…この3ヵ月でバーナビーの性格がようやく掴めたと言うか、やっと懐いてくれたような気がする。それでもたまに押し黙ったりするので、やっぱりハンサムの考える事はわからん…という結論をたまにはつけたりしたのだが。
ヒーローとしての出勤があるせいで、予約をドタキャンされることもあったが、それは他の客でも良くあることなので別に気にしていない。そのおかげで若干元からちまちまとする治療になりがちなのが余計に長引いてしまったということはあるのだが。
虎徹としてもこの病院に入り浸りというわけではなく、定期的に研修会や歯科医師会経由の市から要請されている往診にも赴いているし、レセプトも自分で処理しなくてはいけないから月末は忙しすぎるし。
そんな中で無事にインプラントの治療が終わっても、バーナビーは定期的に通って来るようになってしまった。
時には夕方に来て翌日の一番の診療に来るほどで、まるでさっきも会ったかのような感覚がやってくる。
今日もありきたりな一通りが終わり、診察台からバーナビーが身を上げた。
「あのさ、バニーちゃん。別にこんなにマメに通わなくても…月一でいいんだよ?いや、バニーちゃんのお口は綺麗だから二か月に一度でもいいくらい」
確かに以前歯のケアは治療より予防が大切だと言ったことに間違いはないのだが、だからと言っての名目として溜まっている歯石を取るって言われても、殆ど溜まってないし…つまらなく虎徹はそう言った。
経営者としては定期的に通ってくれるお客様をGETする事が一番大切なのだが、本人負担は3割だから後は社会保険庁からがっぽがぽでいいじゃないかという考えを持つ歯医者もいる。しかし虎徹はそういう性格でもないからこその言葉だった。保険証は一か月に一度は提示してね…というのも何度言った事か。
「そうなんですか…………虎徹さん、僕はもう他に治療する歯はないのでしょうか?」
虎徹の内なる思いは伝わらなかったらしく、平然とバーナビーは尋ねて来る。
あれ…何だ最初に歯磨き粉の試供品とかお勧めしてあげちゃったのが悪かったのだろうか、ついっ口内炎を見つけてしまった時に良く効く薬を紹介したのがいけなったのだろうか、わからない。
とにかく無駄になつかれている気がする。おかしい。虎徹は普通に応対しているつもりなのに、いつの間にか、おじさん呼びも虎徹さん呼びに変わっているほどだ。
「うーん。強いて言えば…親知らずとか?抜く人と抜かない人がいるけど」
一応医療従事者なのだから、聞かれれば選択肢はないというわけでもなく、無難な答えを口に出す。
「確かに僕は親知らず…抜いていませんね。そういえば、どれが親知らずなんですか?」
今まで他の歯医者にお世話になったことがないのだからこそ、それは明確な事実だった。そもそも普通はあまり親知らずが話題にあがらなかったのかもしれないが。
「うーん。バニーちゃんはまだ生えてないみたいよ、4本共」
さきほど一通りの歯をチェックしたからこそ、虎徹は確実に答える。なにより何度も見ているし。
「4本もあるんですか?」
あまり深く考えたことなかったらしく、その数に軽い驚きを含んでいるような声が飛ぶ。
「うん。上の歯の左右の奥に1本ずつと、下の歯の左右の奥に1本ずつ。昔に比べると生える人が少なくなったかもなあ。そのまま生えても痛みを伴わない人もいるし、結構珍しいけど」
「そもそも、なんで親知らずって生えるんですか?」
バーナビーとしては根本から謎だったらしい。大人になってからの事例だからこそ、あまり学校とかでは習わないから仕方ないとは思うが。
「簡単に言うと、すっごい昔の進化のなごりかなあ。現代人って段々アゴが細くなっているから、歯が入りきらなくなっちゃったんだよね。それで幅が足りないから痛くなる人が出てくるの。だからそれが嫌で、親知らずが完全に出て来る前に取っちゃう人もいるよ」
虎徹はマスク越しではあったが自分のアゴに手を当てながら教える。子どもに聞かれたのなら、奥の資料室から図解を引っ張って来るが、頭の回転が速そうなバーナビーなら大丈夫だろうというジェスチャーだ。
「親知らずを取るって…どうやって?虎徹さんも抜きました?」
なんかピンッとこなかったらしく、バーナビーは質問を続ける。自分の親知らずも見た事がないのだろうから、想像が難しいのはわかる。
「いや、俺は抜いてない。抜き方は、えーと………覆ってる歯ぐきを切断して、ぐいぐいって奥の歯を引っ張り出すの。バニーちゃんにも外からは見えないだけできちんと中には親知らずあるからね」
あー。ココ、ココと。ついでにバーナビーのアゴの奥を軽く指で突く。
「それは…随分と痛そうですね」
さすがにエグい想像でもしたのだろうか。少し嫌そうな顔をしながらも率直な感想を言った。実際はインプラント手術の方が本格的なのだが、既存の丈夫で埋まっている歯を取り除くというのが痛そうに聞こえる気持ちは分かった。
「麻酔すれば痛くないんだけど、親知らずの炎症って一度始まっちゃうと、麻酔が効かないんだよね。だから痛いのに麻酔効かないまま手術しないといけないから結構悲惨よ。4本もあるから最悪4回もだし。妊婦さんとかは妊娠中に手術するのは難しいから予め親知らず抜くこともあるかな」
そこまで親知らずに対して予防線を張っている人はそれなりに希少なのだが、事例としてあげておいた。
「なるほど、それで僕も仕事中にそういった弊害が出ないようにした方がいいってことですか?」
まるでスポーツ選手が噛み合わせを気にしているかのような口ぶりで尋ねてこられる。
「いや…多分大丈夫だよ。もうこれ以上は、出て来ることはないだろうし。バニーちゃんの年齢だと生えて来る可能性がないというわけでもないけど、かなり稀」
親知らずは大体生えて来る年齢が決まってはいるが、それでも突然いつ生えて来るかわからないから一応予防線を言っておいた。それでもこれ以上無理に治療をする必要は絶対ない…それだけは確実に思ったからこそ虎徹は強く言った。
「そう…ですか………」
少し声を落としてバーナビーが納得しがちに呟くと、突然空間がしんっとなった。待合室から響く有線放送のクラシックだけが僅かに漏れるように響いてくるが、バーナビー自体が微動だにしようとしないのだ。
「ど、どうしたの?」
かなり軽く言ったつもりだったのだが、何かバーナビーの癪に触ってしまったのだろうかと不安になり、その顔を覗き込む。相変わらずのハンサムに悲壮な表情が映る。
「虎徹さん。ちょっとマスク外して貰えますか?」
突然のバーナビーのお願いは受け取った虎徹からすると突飛すぎた。
「は?いや…今診療中だし、それは無理」
バーナビーの意図などわからなかったが、とりあえず右手を軽く左右に振って条件反射のように言った。マスクは列記とした仕事道具だ。手術の時は専用のメガネさえかけるし。
「もう終わったでしょ?それに今日の予約も僕で最後の筈です」
確かにバーナビーの言うとおりだった。というか、定期的に来る客はだいたい同じ曜日とか時間帯を予約するのでバーナビーも必然的にいつも最後の診療時間になってしまっているだけだ。
だからと言って、はいそうですか…と言う義務もないので、虎徹はバーナビーから後ずさったのだが、後の祭り。
バーナビーは診療台から身を乗り出す様に手を伸ばしてきて、そのまま虎徹の左耳の後ろを掴まれる。
「…ひゃっ」
普段人様に触られるような場所じゃないので慣れなくて思わず息を飲む声を虎徹が出している間に、バーナビーは器用にマスクを取り払ってしまった。
それだけならまだしも、あっけなくバーナビーの顔が近付いて来たのだ。これは、まさか………
「な、、、なにするんだよ!!!」
全力でバーナビーを拒否し押しとどめながらも、思わず普段からあまり使っていないお客様言葉を完全に排除した素の声を出した。虎徹は診療室いっぱいに叫んだのだ。
「何って、虎徹さんにキスしようとしただけですが」
未遂に終わった事に視線をいつもより鋭くしながらも、バーナビーは全く動じずにあっさりと言ってくる。
「キスはバイ菌だらけなんだぞ!………じゃなかった…何で俺にキスなんてしようとするんだよ…」
思わず職業病が一番に出てしまったが、今大切な事はそんなことではない。なぜ、どうして、なんのために、どんな理由で………それが重要だ。
「僕、初めて虎徹さんがマスクを取った顔を見ました。不平等じゃありませんか?」
「はあ?何、言ってんの?」
意味がわからん。というか全くバーナビーの言葉は虎徹の問いかけの答えになっていなかった。言葉のキャッチボールプリーズ!まあ確かに受付とか診療室とかに居る時は衛生的な問題でマスクは外さないが、そんなの仕事柄仕方ないじゃないかと思う。
「だから…なぜ僕だけ無様な格好を晒さないといけないのか?と言っているんですよ」
「えーと、バニーちゃん。ちょっと落ち着いてくれるかな。何を言っているのか全然わかんないんだけど…無様な姿って何?」
思い当たる節もなくただ虎徹はバーナビーを宥めるように尋ねるしかない。
「インプラント手術の時、見えてしまったんですよ。自分が口を開けた姿を………」
そこまではっきりと言われても虎徹は直ぐにはピンッとはこなかった。なんといっても、それが虎徹の仕事なわけで、でもバーナビーが苦悩しているので仕方なく、その情景を思い出してみる。そう言われてみれば、インプラント手術では的確に進める為にいくつか鏡を設置している。しかし流血激しいし若干グロテスクで特に血に弱い男性と言われがちだから、患者の視界はこの時だけは覆っていた。バーナビーももちろん同様で、でも視界を塞ぐのも隙間なく全部というわけでもないから………もしかして鏡を見た?とか。
「一応聞くけど、まさか…口を開ける自分の姿がカッコ悪いとか思ってるの?」
虎徹からすると理解しがたかったのだが、それでも他に思い当たらなかったのでたった一つの可能性を打診してみる。
「当たり前じゃないですか。大口を開けた姿なんて自分でもそんな視認することなかったのに、あんな………それを毎回見られているんですよ?」
わなわなとバーナビーの指が震えているような気がする。言われてみると最初、口開けるの嫌がっていたからなと思い出す。
「いや、バニーちゃんはお口開けてても十分ハンサムだから、気にしなくて平気だと思うけど」
普通診察台に寝そべると髪が乱れたり表情がひきつったりしがちな患者が多いが、バーナビーに関してはそれさえもなかったので、別に普通にハンサムだなあと常々虎徹は思っていたのだが、そんな程度では駄目なのだろうか。完璧主義者なのだろうか。
「気にしますよ!だから…虎徹さんは僕を好きになって下さい。それなら納得できますから!僕が…自分で自分を許せます!!!」
なぜか最終的には大告白になる。理解不能だが、やっとここでさっきのキスという行為だけは結びついた。
「ええー!ヤダ、めんどい」
なんか反応にも疲れて多少気だるい感じで虎徹は拒否を示した。というか、意味がわからなすぎて本気でバーナビーの告白を受け止めろと言う方が無理だからだ。
「どうしてですか?虎徹さん、僕の事よくじーと見てるじゃないですか!」
「いや、それはバニーちゃんを見てるんじゃなくて、お前の歯を見てるだけだから」
やはり変な勘違いを与えてしまったことは申し訳ないが、確かに不必要にバーナビーを見ていた事は事実だった。
虎徹は歯科医師とはいえ職人気質も持ち合わせている。苦労して削ったインプラントの出来栄えとか抉った歯茎の回復具合とかそういうのを眺めているのは、素直に楽しい…とバーナビーにそのまま言ったら怒るだろうから言わないけど。まるで自分の芸術品を見ているかのような目を向けてしまっていた。
「………僕の……歯…ですか……?」
有り得ない言葉を聞いたかのように目を見開いて若干震えながらもバーナビーはそう聞いてくる。きっと子どものころからもハンサムとしてそんな事言われたのはないのだろう。ショックを受けるハンサムの反応は予想通りだった。
「俺、バニーちゃんの歯は好きだよ。矯正していないのに歯並び整っているし、元々綺麗だからホワイトニングもいらないし、嫌がられる歯磨き指導とかしなくていいし…」
指を折ってバーナビーの歯の良い点を並べたてる。これだけの羅列だとまるで上客だと営利的に言っているように思えるかもしれないが、本心だ。申し訳ないが、虎徹からすると事実なのだから仕方なく、フォローの言葉を入れるのだ。
「………わかりました。じゃあ、また虫歯を作って…歯以外にも僕には良いところがあるって証明出来てから来ますから!」
考え込んだ後に、すっと顔を上げたかと思ったら、結局バーナビーは不可解な事を叫ぶと診察台を降りて走り、そのまま扉を開けて病院の外へ出てしまった。
後に残るのは開きっぱなしの一陣の風からのって来たバーナビーの香水の残り香だけ。
「まいったな、こりゃ………」
病院内は静かに…とか、まだ会計すませてない…とか、ついでに保険証返していない…とか、色々と言いたいことはあったが、虎徹は病院備え付けの固定電話からバーナビーの携帯電話番号を検索した。
表示された番号をメモると、ロッカーから自分の携帯電話を取り出して番号を入力した。
虎徹の携帯電話からバーナビーに連絡を取るのは初めてだ。
非通知設定ではないとはいえ出てくれるか怪しい。でも、いつもの病院の固定電話からでは出てくれないだろうから。
さて、何と言ってバーナビーを悪の虫歯への道から戻してやろうかと考えながらも、虎徹はコールボタンを押した。