俗にハンサムと呼ばれる男性は何を身に着けていても、何を持っていても、似合うのだと思っていた。
だからこそ、この場に不釣り合いな荷物を持っている人間がいても誰一人として疑問に思わなかったのだろうが、一瞬だけ気にとめるという範囲には当たったのだ。
そうしてその整った顔立ちをまじまじと眺める結果となる。
「あの…失礼ですが、もしかして………バーナビー・ブルックスJr.さんですか?」
「………はい、そうですが。僕をご存じで?」
こうしてその男は、小さな劇場の真ん中ではあるが、一番後ろの席に座っていたバーナビーに見事に声をかけることに成功したのだった。
「もちろん知っていますよ。なんといっても、貴方はトップヒーローではありませんか」
年甲斐もなく青年の様に少し胸が高鳴る音量で、男はバーナビーがヒーローであることを強調した。
こんな機会滅多にないであろう。まさに偶然としか思えないほどの幸運。この場が教会ならば、たまたま隣の席に座っていたという天運を神に祈って伝えたいほどに感激していた。
「元…ですよ。大分前に引退させて貰いましたので」
謙遜するように肩をすくめて、控えめにバーナビーは伝える。
そうは言いつつも、こういった反応に慣れている素振りは、さすがといったところだろうか。
「ああ、そういえばそうでしたね。しかし、どうしてこの街に?」
この街は国という境界を越えるほど大都市シュテルンビルトから遠く離れており、飛行機を使っても最低4時間はかかるほどだ。
だから地元ならばともかく、バーナビーもこの場で男に声をかけられたのを多少意外がっているように見えた。
「観光ですよ」
確かに、そのバーナビーの返事は模範的だった。
劇場こそ地元の人間が足を運ぶ程度というほどの小ささではあるが、この場から少し離れれば世界遺産の立ち並ぶ世界有数の観光地なのだ。
一応この街は、隣の観光都市のベッドタウンと化しており、三駅ほどの移動をするだけで手ごろな値段で宿に泊まることが出来るという謳い文句で高くプッシュしている。
「そうですか。ようこそいらっしゃって下さいました。貴方のヒーローとしての活躍ぶりは、歴代最高と未だに誉れ高い。そんな方に足を運んで頂けるとは感激の極みです」
男は高揚をし、まるで自身が街の代表であるかのように迎えた。バーナビーはそれほどの人物なのだ。
マスメディアの誇張でも何でもなく確かにバーナビーは人命救助と犯人逮捕を中心に、膨大な件数を清く正しく正確にこなしてきたのは、市民ならば誰でも知っていることであった。
偶然とはいえ、目に留まってくれたのだけでもありがたい。これで良い印象を持ってもらえるならば尚更だ。
「それは…恐縮なことです。ところで随分とヒーローにお詳しいようですが、何か…ご興味がおありだったのですか?」
「ああ、これは失礼しました。俺はこういうもんなんです」
男は、がさごそとくたびれた背広の内ポケットから鞣した革の名刺ケースを取り出すと、その中の一枚を向けてバーナビーに手渡す。
「出版社の方ですか?」
そこには、バーナビーには馴染みのないこの地方名が書かれていた。
「ええ、これでもしがない雑誌の記者をやっています。今は地方局に飛ばされていますが、何年かシュテルンビルト局に居たことがありまして、その時にヒーローの事は色々と小耳に」
シュテルンビルト市民ならばそこで生活をしているだけでもヒーローの話題がつきないだろうが、仕事柄で男はよりヒーローについて興味を持っている部類に当たった。
そんな少し昔の日々が、とても懐かしくも思う。
「そうですか。では、今日もお仕事か何かで?」
ラフではあるが一応スーツ姿の男を改めて確認して、バーナビーは疑問を口にする。
「いえいえ。たまの休日なのですが、独身男っていうのは仕事以外やることがなくて、こうやって近くの劇場で時間つぶしってわけです。バーナビーさんこそ、よくこんな場所をみつけましたなあ」
感心感心と、大げさなリアクションをして男は何度かうなずく。
それほど綺麗とはいえない劇場は、地元民の憩いの場でもある。
集会所の隣に並列されているというぐらいで、ぱっと見の外からではここが劇場であるとはわからない人の方が多いだろう。
入り口に近づいて、壁や掲示板に張られているチラシでようやく気がつくくらいだ。
マニアックな地元用観光雑誌ぐらいには紹介されているかもしれないが、おそらく隣市の住民でも正確に場所はわかっていないと思われるほどの扱い。
だからこそ庶民的で安心出来ていいと街の住民は思うわけで、まさかそんな場所でそれほどこの場に似合っていないと思うバーナビーを発見するとは、なかなか心臓が悪くなる事態ぐらいだった。
「観光と一口に言っても気ままな長期旅行なので、自分の車で巡っているんですよ。たまたまこの辺りにさしかかったら劇場があったので足を運ばせてもらいました。今日はなかなか興味深い劇を見せてもらって、色々と勉強になりました」
そう言ってバーナビーは先ほど演目が行われていた場の正面に視線をずらす様に、少しだけ劇向き直った。
幕が降りて拍手もひと段落した後に男はバーナビーに話しかけたわけだから、今舞台に誰かがあがっているというわけではないが、どうやらなかなか感慨深かったらしい。
男からすれば、それは定期的に行っている恋愛を主体とした演目の一つだったから目新しいというわけではないのだが、マイナーなりに確かになかなか変わっている内容だったかもしれない。
こういったことに目が肥えていそうなバーナビーのお眼鏡にかかったのなら、うれしいことに違いはないが、若干の違和感。
「それはそれは。しかし、前の方のチケットも余っていたでしょう?もう少し前でじっくり見ればよろしかったですね」
そういう提案をした男ではあったが、自分自身も昼寝半分で足を運んでいたのだからあまり強く言えないのかもしれない。
今日の劇場の客入りは、6割といったところだろうか。
平日の昼間であるからなかなか上々という感じなので、客席も若干まばらに見える。
いくら真ん中とはいえ、後ろに鎮座している自分たちはかなり珍しい部類に当たるだろうが。
「全体を見渡したかったんです。十分いい席でしたよ、ここでも」
そう言って、バーナビーは少しずれた眼鏡を直す。
それを聞いて、ふむふむ、そういう解釈もあるのかと男は変に感心していた。
座席の間隔も高低差も作りが昔な仕様な為、後ろだと足も狭い結構見にくい筈なのだが、バーナビーはそれなりに高身長なので気にならないのだろうか。
バーナビーよりやや身長の低い自分は、目線的にも前方に座っている他人の頭が視界に入り見にくいというのに。
それにしてもこんなにリラックスしているバーナビーの姿はカメラ越しではないとはいえ、ほとんど初めてみた気がする。
確かに画面の向こうのスーパーヒーローであるからして、男がバーナビーに今まで会ったことは一度たりともないのだが、それでもどこか近寄り難い雰囲気をどこまでも纏っていたかのような印象を受けていたのだから。
それが、今日はかなり野次馬根性たくましい自分の質問を優雅に答えてくれている。
その受け答えがファンサービスの一部よりもう少し踏み込んだ感じに見受けられたのは、仕事柄か。
だからこそ、最初に声をかけた途端から渦巻いていた思惑を口に出してみたくなるというものだ。
「………ご旅行中に申し訳ないのですが、もしお時間あるようでしたら、もう少しお話をお聞かせ願えませんか?」
こちらもプライベートとはいえど、根っからの職業病持ちだ。
絶好の機会に焦ってしまった感はあったが、男は下手に出ながらも、そう頼み込んでみた。
「取材ですか?もう僕の記事なんて、誰も関心持たないと思いますが」
少しだけ戸惑った顔を見せつつ、バーナビーは言う。
ヒーローを引退したのは随分と前の話であるからと、暗に付け加えているようだ。
「いえいえ、まさかのご謙遜を。安い三流記事にするつもりは毛頭ありません。きちんと内容はアポロンメディア社に確認も取りますので、どうかお願いします」
男は改めてバーナビーに向き直って、軽く両手を擦り合わせた。
ヒーロー当時から大人気であったバーナビーではあったが、引退してからはアポロンメディア社の重役に治まって後輩達の指導育成の顧問としての立場になってしまったので、その後の取材攻勢がうまくいかなかったという経緯はシュテルンビルトの業界内では有名な話である。
バーナビーとしては、もうヒーローではないのだから後輩に譲るという形を取りたかったらしく、必要以上の露出を避けたようだったが、こんな絶好の機会はもう訪れないだろう。
「……そうですね。わかりました。かまいませんよ」
少し考え込む仕草を見せたあとに、こちらの様子をじっくりと伺われたのだが、どうやらそれは合格だった証らしく、切符を手に入れたのも同然だ。
軽く組んでいた両の指を外すと、バーナビーは了承を示した。
伸ばされた右手に促されるように、男も自身の右手を出して、ふわりと握手をする。
「では早速、社に連絡をします」
劇場という場もちょっと忘れて男は、よっと胸ポケットから手帳と携帯電話を取り出した。
「ちょっと待って下さい。今、シュテルンビルトは時差からすると深夜なので、アポロンメディアに電話をしても繋がりませんよ。そちらの会社様に無駄骨を折って貰わらなくてもいいと思いますが」
立ち上がって携帯電話に手をかけたところで、バーナビーに片手で言葉と共に制止される。
「あ、そうでしたね。失念していました。ではうちの会社だけにも連絡を………」
そこまで言って、また言葉が遮られる。
「わざわざ連絡しなくても大丈夫ですよ」
「いえ、しかし取材の金銭的なお話もしなくては………」
折角巡ってきたチャンスであったが、これはビジネスだと男はわかっている。
こんな大物の取材を自分のような下っ端がするのは初めてだが、上の会社間で動く金銭は相当なものであろうから、それを自分の独断と偏見だけで通して良いものではないだろうという頭の中は巡る。
「それは追々で構いませんよ。そちらの会社に無理を頼むつもりもありません。ただ、その代わり…」
そこでふっと視線をこちらに向けて、バーナビーは明確に言葉を区切った。
若干胸の内で何かを溜めているようだか、どうやら言いにくい話題のようだ。
「代わりですか?何か」
はて、そんな代わりになるようなものはあったかと男は思いながらも尋ねる。
もしかしてこの劇場の演目が割りと良かったので、色々と聞かせて欲しいのだろうか。
演目が万人用ではないのと比例して、言語も英語ではなく地元の地方弁丸出しなので、詳細を訪ねたいというのならわかるかもしれない。
薄っぺらいパンフにさわりは書いてあるが、これだけで単純わかれという方が難しいだろう。
しかし、バーナビーが次にこちらへと落とした言葉は、男の想像とはかなり露骨にかけ離れていた。
「どうやら僕は、貴方のことを気に入ったみたいです。旅の思い出に貴方の話も聞かせてやって下さい」
営業用スマイルよりも一段と色気が増した言葉を、ぽんっと投げかけられた。
そこで男はようやく思い出した。
このトップヒーローにゲイ疑惑が浮かんでいたことを。
今更断ることができるほど、年齢の割に男は心が強い人間ではなかった。
相手はあのバーナビー・ブルックスJr.なのだから、初めからそんな選択肢など用意されていなかったのかもしれないが。
あっと言う間に、では近くのカフェにでも…という話になり、主要駅近郊の静かでそれなりに高級感あふれるカフェへと案内すると、とりあえずエスプレッソを二つ注文して、ゆったり一人掛けソファに腰掛けて合い向かいになってしまった。
おかしい。大丈夫だろうか自分は。なにを、ふらふらとしている。
若干緊張にガチガチになりながらも、おぼろげに自分のスペックを思い出す。
さすがに正確な年齢など覚えていないが、何しろ目の前のバーナビーより大分年上な自覚があり、身だしなみもそんなに気を使ってはしない。
着ているスーツも休日用のラフな格好を思いつかなかったため、仕事用兼のいつもの適当仕様だ。
大体自分はバーナビーとは軽い仕事トークの質問しか投げかけていない。
それなのに、なぜ自分なんかに興味を?謎すぎる。
ともかく変に色々と考えても、頭の中を嫌に厄介なことがぐるぐる巡り巡るだけである。
これは仕事だと自分の頭の中を無理矢理切り替えて、仕事用手帳片手に取材用のテンプレをさくっと投げかけ始めるのだが、こればっかりは準備期間があった方が望ましかった。
多分、今までの雑誌とかでも取り上げられてきたような内容だが、基本中の基本なのだから仕方ない。
取材慣れをしているバーナビーはすらすらと、画面の向こうのバーナビー・ブルックスJr.像そのままのデフォルト回答をしてくれる。
さすがにまだ若かった現役の頃よりも随分と深みを増した内容で、それが本心なのだか上辺なんだかはわからないが、これ以上混乱発言をされるのもこちらが無理なので、とにかく汚い字でも言葉通りに書き写し、仕草や表情などの細部は脳内に叩き込む。
それにしても、突然取材をしていても一切の淀みがないのはさすがである。
こんな素晴らしく何の一点の曇りもないはずなのに、本当にバーナビーはゲイなのだろうか。
完璧な人間など存在しないのだから、それくらいあってもいいかもしれないが、自分の身が危険に晒されているとなれば話は若干別である。
しかし、そもそもゲイというのも噂で小耳に挟んだ程度だ。
バーナビーが色々な男性と歩いているのを目撃された。ただ、それだけ。
それが友人なんだか親戚なんだか、そんなの本人にしかわからないが、相手が有名人ではないことだけは確かだ。そうであればメディアがこぞって色めきだすのだから。
決定打な証拠などないし、相手はあのアポロンメディア社の重役ということで、マスメディアサイドも強くバーナビーにつきまとうなどできず、噂が噂を呼ぶようになっているだけなのだ。
そうなのだ、そうだと思いたい。だから思い込ませる。
考え事をする余裕がそれほどあるわけではなかったが、一般的な質問は終わりようやく核心に入る。
「今回のご旅行は、何か目的があるのでしょうか?」
これこそ、旅先だからこそ聞ける質問だ。
今回中心的に組みたいポイントで、最初に会った時に観光だと簡単な答えは貰ったのだが、もう一歩踏み込む形となる。
この国の観光はバーナビーのプライベートとしてなかなか相応しいという自負があるので、もう少し厚みのある記事にして、地元のアピールも兼ねたいという思惑も含んでいる。
「そうですね…特に決めてこちらに足を運んだわけではないのですが、街並みの雰囲気に惹かれて足を止めました。石畳も素晴らしいですけど、何より…人がたくさんいて賑わっていましたから。元々、そんな立派な旅行の明確な目的はないんですけどね。現役時代はシュテルンビルトから遠く離れることはなかなか出来なかったので。かねがねこうやって、ゆっくり諸国を巡ってみたいと思っていたんです」
「なるほど。では今回は、おひとりで?」
ヒーローの素晴らしさを持ち上げながらも、納得の言葉を出して流れるように次の質問へと移る。
「さて。それは、どうでしょうか…」
その問いに少しだけわからない首を振るような仕草をされたので、何か声にも含むような印象を受けたので、男は自分が野暮な質問をしてしまったなと思った。
そこはプライベートに当たる範囲となるらしい。編集ではカットするだろう。
気を取り直すように、直ぐに雰囲気を変える為に次の質問に映る。
「えーと、確かにヒーローは要請があれば直ぐに駆けつけてくれますから、ご旅行とかそういった自由はなかなかなかったわけですね」
そうして、急いでペンを走らせてメモをとるふりをする。
オフレコを含めたとしてもプライベートでしていい話題とそうでない話題の空気くらい読み取りたいものだ。
「僕は、生まれも育ちもシュテルンビルトでしたから、正直あまり街の外に目を向けたことはなかったのかもしれません。ご存じのとおり、四歳で両親を殺されてから手掛かりを探してヒーローを目指して生きて来ましたので、そんな余裕はなかったんです」
ここで少しバーナビーの声のトーンが落ちたので、男は心の中だけで…お?と思ったが、特に口を挟まなかった。
バーナビーの経歴は大衆紙よりは心得ている方だが、本人はあまり暗い過去の話をしたがる方ではなかった筈なので珍しいのだ。
正直、素晴らしいヒーロー像そのままのトップヒーロー話は有り触れ過ぎている。
少し影が合った方が、話としても膨らみが増すと思い、ただメモの手を進めるだけだ。
「昔、問いかけられたことがあるんです。もし、ヒーローを辞めたら何をしたいか?って。僕は直ぐには思いつきませんでした。もしかしたら両親の事件がなければ、同じ仕事を目指してロボット工学者になっていたかもしれませんが、その未来は今の自分の目標ではなくなってしまった」
少し残念そうな表情をバーナビーは見せる。
今からでもなることが出来ない職業というわけではないのだが、何かが違ってしまったのだろう。後戻りをするつもりもないらしい。
「幼い頃は、やはりロボット工学者になりたかったのですか?」
「そんなことを言ったような気もします。ただ、あの頃は世界の中心が両親でしたから、それ以外考えられなかったのかもしれませんが。そんな僕に、もっと世界を見ろと行ってくれた人がいました。だから、今は少し時間が出来たのでこうやって諸国を巡っているのかもしれません」
広く取られた窓の外を、ふっとバーナビーは見つめる。青い空から、この世界の広さを改めて実感するように。
シュテルンビルトは都市としては世界有数の大きさではあったが、やはり世界は広いとこの旅で体感したのだろうか。
「差し支えなければ、どなたから助言を?」
取材中、初めて伏せられた名前に男は違和感を覚え、尋ねてみる。
「………パートナーのワイルドタイガーさんから、です」
「…あ………」
瞳を伏せてその名前を言われて、初めて男はしまったという顔をした。
この話題は、バーナビーの中で一番の禁句なのが暗黙のルールだったのだ。
あの部分は最も追求してはいけない場所だったのに、当たってしまった。なんてことだ。
男は、ペンを握って固まったまま、視線を動かすことさえしばらく叶わなかった。
「………取材される方、皆さん……タイガーさんの話を出すと遠慮しますけど、そんなに気にしなくても構いませんよ」
こちらが気を使う立場なのに、バーナビーは軽くほほ笑んで逆にこちらを気遣った言葉を投げかけた。
しかし、さすがに名前を出す前と後での表情の違いは読み取れるほどの変化は隠せない様子。
「いえ、その……なにぶん自分も不勉強でして、あまり知らなくて恐縮なのですが」
文字通りの苦笑を投げかけるように、男は曖昧に言葉を濁す。
この場合は、とぼける方が今の自分にとっては有益だと、脳が勝手に警告して来たのだ。
「タイガーさんの活躍はご存じで?」
「…はい。それは、もちろん。長らく活躍なさっていましたが、バーナビーさんとコンビを組んでいる間が一番輝いているように感じました。とても………とても残念な結果とはなりましたが」
これ以上、男が言葉を続けることはなかった。そのあまりにも凄惨な事件を思い出して。
バーナビーの前でこの話題が禁句になっているのは、ワイルドタイガーが亡くなってしまったからだ。
それも極めて最悪な形で−−−
ワイルドタイガーが亡くなったと、ぽんっと一報が流れた時、誰もが理解しうる事が出来なかった。それほど衝撃的で。
その遺体が見つかったのは、彼の自宅だったらしい。
いや、もうそれはない。自宅も………遺体さえも…
警察の発表によると放火だったらしい。甚だしく悪質な。
いくらスーパーヒーローであろうが、プライベートの隙をつかれてまで無敵になれるはずがない。
誰もが見取ることもないまま…見つかったのは、辛うじて人型だったと思しき黒炭をベッドサイドに。
他は、何も…何も残らなかった。
あの犯人は捕まったのだろうかと、後追いのニュースからそこまでは知りえないが、何かの怨恨だったらしいという記憶はある。
ヒーローであるからこその最悪の事態として、いわゆる逆恨みを食らったのだ。
そしてバディではなくなったバーナビーが、それ以来ワイルドタイガーに対してメディアに言葉を発するのは、今回が多分初めて。
「…彼は、ヒーローの中のヒーローでした。時々思うんです。本当は僕よりタイガーさんの方が、こうやって旅行をしたかったかもしれないと」
そう言って、バーナビーは席の横に置いておいた自らのジュラルミン製スーツケースを引き寄せた。
カラカラと軽い音が、ワインレッド色の厚い絨毯の上を鳴らす。
正直、この話題に男は参っていた。
当時の話をうまく引き出せるのなら最高なのだろうが、自分にはそんなスキルがあるとは到底思えず、もしかしたら折角機嫌の良さそうなバーナビーの神経を逆撫でしてしまう可能性だってあるからだ。
もうこれ以上は無理だと思い、唐突ではあったが強引に話題を変える。
「………そのスーツケースですが…」
「はい。これが、何か?」
バーナビーが手元で取っ手部分のフロックベルトをなぞったところで、興味をずらすように軽く指し示して強調する。
「いえ。ご旅行中とはわかっていますが、ずっとお持ちになっているんですね。劇場でも横においてありましたから」
そういえば最初に、バーナビーを認識する前に注意深く見るキッカケがそれだったかもしれない。
背が高くスタイルも良いハンサムな男が、その場に不釣り合いな大きさのスーツケースを持って座っているのである。
旅行者であると一目瞭然ではあったが、アンバランスさはぬぐえない。
チタンゴールドカラーのメタリックは高級感を示していたが、バーナビーのイメージからは少し外れているだろうか。
男であるとはいえ着替えは多そうな印象を受けるので、ざっと五泊分といった大きさだろうか。一般人ならば一週間の旅行でも困らないサイズかもしれない。
確か車で移動していると聞いたから、ホテルに預けている余裕がないから、こうやってなるべく携帯しているのかもしれないが、それをわかっても良い話題が浮かばなかったので無理やり聞いた形となった。
「ええ。少し荷物が多いので大変なのですが」
「バーナビーさんほどの方ともなると、色々と荷物は多いでしょう」
そう言う割に、大手のスーツケースを片手に転がす音は軽かったような印象だったから、少し疑問が残ったが、男はそれ以上の追及はせずに軽く言葉を続ける。
「皆さん、どうやって荷物を持ち運びしているのでしょうかね」
本当に不思議なくらいだと、バーナビーの表情まで比例するように逆に尋ねられた。
「いやはや、大抵の男の荷物なんて普通は財布とハンカチと携帯電話くらいです。女性みたいにバッグを持つのもなかなか大変でしよう。自分なんかは、少しくらいの物なんかはジャケットをバッグ代わりにしてます。こうやって…」
少し勢いづいて、男は自分の大ぶりなジャケットを脱いでみせる。
既製より内ポケットが多く付いているタイプなので、手帳でも何でもかなり入るのだ。
こんな感じですと、それほど綺麗ではないが内側を見せて示してみる。
「それは、なかなか画期的ですね。今度、参考にしてみます」
「またまた、ご冗談を。バーナビーさんならもっとお似合いの方法がありますよ。きっと」
意外と真面目に受け止められたことに驚きながらも、一般人の冗談としてはなかなか成功したようだ。
暗い雰囲気を一気に払拭することに見事成功したと思った。
カフェ内は程よい温度調整がなされているので、本来ならばジャケットを脱いで横に置くような環境ではない。
簡単に見せるのが終わると、また元通りに着込み始める。
「…待って下さい。差し支えがなければ、そのままで−−−」
声色だけは穏やかだったが、殆ど命令形の鋭いバーナビーの声が飛ぶ。
半分ジャケットを腕に通したまま男は金縛りにあったように一瞬止まるが、確かに言葉通りに脱いだ。
そのまま簡単に四つ折りに折りたたんで、座席の横へとざっと置く。
なんと居心地が悪いのだろうか。確かに取材をしているのはこちら側の筈なのに。
バーナビーからしゃべりかけているわけでもないのに、こちらを頭のてっぺんからつま先の先まで見ているような気がする。
それが重厚な机越しであろうが、なかろうが、そんなことは一切関係ないようにさえ思うほど強烈に。
「すみません。しばらくでいいので、少し黙って貰えませんか?」
追い打ちをかけるように、そんな言葉を出してきたので、男は黙りこくることしか出来なかった。
自分は一体、何を言っただろうか。いや、やったのだろうか。
覚えはいくつかあったが、どのそれをも決定打ではないようにかわらない。
ただ、じっとりと舐め回すようなバーナビーの視線に晒される。男に許されたのは、それだけだった。
「………ああ、やっぱり…貴方のその肌は、少し虎徹さんに似ているような気がするんです」
「…はい?」
同姓でも色めき立つほど感嘆のため息と艶っぽい声で、そう言われたのだが…男にはバーナビーが何を言っているのか全く理解できなかった。
理解できるはずもなかった。
もう、自分は…この理解出来る世界に住まう住人ではなくなってしまったのだから。
この国の駐車マナーは、世界有数に悪いと有名だ。
バーナビーは、市規定の駐車場から少し離れた寂れた場所に止めてあった自分の愛車へと駆け寄った。
赤のスポーツカーは、ここでなくともどこでも目立つ存在だ。
一度コインで傷をつけられるという悪戯を受けたこともあるから用心して、なるべく人目のつく場所に置くようにしているが、今日は大丈夫みたいだった。
キーはポケットのままだが、近寄ることで自動的に鍵のロックは解除される。
助手席に近寄って扉を開けると、一番にスーツケースを助手席に丁寧に座らせ、シートベルトをすることも抜かりはない。
次に後ろのトランクを開けて、新たに得た荷物を揺らがないようにしっかりと固定する。
そこまで準備を終えて、ようやくバーナビーは自らの身体を運転席に腰かけた。
ミラーの位置を確認してブレーキを踏むと、エンジンをかける前に、ふとシフトノブカバーに目をがいった。そこに、わずかな擦り傷がついていることに気が付く。
そういえば、このカバーは一か月ほど前に取り変えたばっかりの筈だが、案外うまくいかないものだ。
自分は器用である自覚はあったが、そこまでのプロではないから、確かにシフトの独特な丸みがうまく張り切れなかったのかもしれない。
そろりとシフトノブカバーのすべらかであったはずの感触を撫上げるが…もうかさついている。
今日、新たな皮膚を手に入れて正解だった。本当に…とバーナビーは笑う。
もう時間が遅いから無理だが、夜が明けたら早速先ほど新しく得た男の皮膚を剥ぎとって革張りしなくてはいけないと思った。
どこの皮を剥がすか、まだよくは観察していないから、脳内だけで連想を繰り返すが、多分頬が一番柔らかいから適しているだろうか。
しかしシフトノブカバーが駄目だとすると、面積の広いシートカバーとハンドルカバーは大丈夫だろうかと、バーナビーは深く腰掛けて確認をして、次にはハンドルをがっちりと握る。良かった、まだこちらは平気なようだ。
さっきトランクを開けた時、敷いてある指の爪を均等に並べて作ったラゲージマットも変わりなかったような気がする。
バーナビーは後部座席に目をやって、普段は外している黒い送風クッションに目をやる。
しっかりとした存在感の中にぎっしりと詰まっているのは黒味の深い焦げた色をした髪の毛で、助手席の後ろに取りつけてある収納ボックスの四本の支柱に使われている理想的な大腿骨を集めるのは大変だった。
そして、車内だけのフレグランスは血の香りで、外行き用の香水とは違う素晴らしいフレーバーだ。
車内はその尤もな場所ではあるが、バーナビーが身につけている少し褐色のベルトもなめした人間の皮で、箱の中に入っているのは、頭蓋骨を半分に割って作ったスープ皿だったり、あばら骨を削って作ったスプーンだったり。
この場の装身具も室内装飾品も、出来うる限り人間だった存在で出来あがっていた。
そう………バーナビーは、虎徹の言うように広い世界を旅した。
虎徹の言うことを守っていれば、大丈夫だと、絶対に大丈夫だと、心の中で繰り返し続けての暗示の中だけに生きる。
しかし、世の中に似た人は三人いると言うが、なるべく人の多い場所で人間観察を繰り返していても、なかなか虎徹と寸分違いない人間が見つからなかった。
こうやってパーツ単体で見つけるのは何度かあったが、それもバーナビーの心の内を慰めるだけの限定的で、本当に容易なことではない。
助手席のスーツケースには、昔…虎徹が身に着けていた焼け焦げてしまった、たすきが入っているだけ。
これだけ…本当にこれだけしか残らなかったのだ。なんて、酷い。
だから焼死とされた虎徹なんて、バーナビーは信じてはいない。あれはフェイクに違いない。どこかに、きっと必ず彼は居るのだから。
頭をあげて、バーナビーは車のエンジンをかける。出発だ。
たすきだけが入ったからっぽのスーツケースに入れて、バーナビーはどこまでも旅を続けるだろう。
「どうか、このスーツケースに虎徹さんが入ってくれますように」
どこまでも歪み続けた、ありったけの願いを込めて助手席に手をやった。
そうして、ウィンカーを出して今度の目的地を練る。
「次はやっぱり………日本に行きましょうか。ね?そこにいるんでしょ、虎徹さん」
一番虎徹に近い遺伝子の可能性を持った国へ向かうために、車は排気音を立てて探し進んで行った。