自分の一番大切なものは、記憶だとずっと思っていた。
四歳の誕生日の時に両親から貰ったおもちゃでさえ、その記憶をなぞる物体として存在しているに過ぎない。
それなのに、バーナビーが心の拠り所にして来た記憶は、自身を辛くも鮮烈な形で裏切った。
ビー ビー ビー
PDAも、自宅の電話も、呼び鈴も、うるさいほどにずっと鳴り続けているが、バーナビーはそれに反応することも電源を切ることも何もすることも出来なかった。
そんな気力もなく、ただ背もたれを倒し深くその場に沈むことしか出来ない。
見上げる天井は空虚のまま、考えれば考えるほど発狂するほどに闇に囚われてしまう恐怖。
そんな中、左手の玄関方向からの若干乱雑な物音が響いたが間近に迫るまで顔を向ける心気さえ出なかった。
だってわかっている。この家に無断に立ち入ることが出来る自分以外の人物は、バーナビーが誰よりも信頼し認証コードを教えてロック開閉の生体認証を登録した、いつもこの部屋に来て愛して病まない唯一の人間なのだから。
「バニー、大丈夫か?」
ゆっくりと歩み寄ってくるのはパートナーでもある虎徹で、バーナビーを刺激しないように慎重な様子を見せる。
いつも部屋に来た時に見せる飄々とした姿は微塵も消し去っていた。
ここでようやくバーナビーは廃人のように衰弱しきった身体を何とか持ち上げて、中腰になった虎徹と目線を合わせた。
「………大丈夫も何も…僕はもう自分自身が信じられないんです」
虚ろな瞳を虎徹に向けながらも、何とかバーナビーはそう言った。
この10か月間。クリームに指摘されるまで疑おうともしなかった記憶は、その証言とジェイクのタトゥーの有無によって決定打となってしまった。
そうして全ての記憶が今になって反抗するように、バーナビーを惑わす。
あれは、ジェイクだった………ジェイクだったはずだ。そう思いたかったのか、自分は。
本当にクリームが言うように、他のウロボロスが両親を殺害したのだろうか。
「気持ちはわかる。だからってここで腐っていても仕方ないだろう。この前、家政婦さんに電話していたみたいだが、まずはお前の昔を知っている人に確認してみるとかだな…」
しっかりしろとバーナビーの両肩を持ちながら、虎徹は真摯に提案する。
何とかバーナビーを前向きにしてやろうと、虎徹の方がよっぽど必死に見えた。
「駄目なんです。もう… だって犯人の顔がジェイクだったはずなのに、そう思いたいのに、サマンサおばさん…マーベリックさん…両親の同僚………色々な人に切り替わって行くんですよ?ついにはルナティック…虎徹さん…最後は自分の姿まで出てくるようになってきました」
有り得ない現在の自分さえ登場するようになってしまった。もう、何もかもがわからない。
狂ったように笑いながらも、頭を抱えてどこまでもバーナビーは混乱した。
こんな状況で、誰を何を信じろというのだろうか。何もかもが無理すぎた。
「俺も犯人か?」
意外な場所で自分の名前を取り上げられて虎徹は動揺を隠せなかった。
そういえば、バーナビーが犯人の顔としてジェイクを思い出したのも炎に包まれる自身を見た瞬間ではなかっただろうかと思い当たったようだ。
もちろん虎徹自身にそんな覚えは全くないのだが、そのラインナップに登場してしまうことを苦々しくも感じているようだ。
「わかっています。貴方がそんな人ではないことぐらい。だからこそ自分の記憶が嫌なんです。本当は両親だって死んでいないのかもしれないって思うくらいで………」
言葉は安易には続かない。
望んでもいない人間を次々と出てきて、自分の記憶なのに全く言うことを聞いてくれないのが忌々しかった。
そうして最愛の虎徹さえも疑いを向けなければいけないという意味不明さ。
もはや自分の記憶はどこまでが本当なのかわからない。
両親を殺した犯人だけではなく、今まで自分が苦労をして築き上げてきたものでさえ、全てが偽りではないのかと錯覚してしまうほどに占領されていた。
「一度、病院に行こう。ジェイクが心を読めるNEXTだったんだ。もしかしたら記憶を改ざんするNEXTもいるかもしれない。検査してもらった方がいい」
これはとても虎徹の手に負える範囲ではないと思った。
それでもともかくこの場に荒廃するように居続けるのはバーナビーに良くないと思って、何とか立ち上がらせる言葉を促した。
「嫌です。もう僕は自分さえ信じられないんですよ。他人を信じられる筈がありません」
ふるふると頭を振ってバーナビーはどこまでも拒否を示す。
「じゃあ、どうするんだ。何なら信じられるんだ?」
ここまで冷静を努めてきた虎徹だったが、どうしようもなくて若干声を荒げた。
バーナビーの為にそっとしておいた方がいいのかもしれないが、それでは駄目だと同時に思ったのだ。
だからこそ、バーナビーの意思を尊重しつつも何とか改善の方向を探し出すしかなかった。
「今、僕が信じられるのは、心にあるこの気持ちだけなんです。貴方を愛しているという、この気持ちだけ」
ぐっと右手で心の臓をつかんで見せてバーナビーは訴える。
たとえすべての記憶が偽りだとしても、この心に芽生えている気持ちだけは何一つ嘘偽りがないと、それは痛いほどにバーナビーの心が主張しているから、それだけは信じられて唯一の救いにどこまですがった。
「そう思うなら…俺のことだけを信じてでいい。病院に行こう。なっ?」
子供を宥めるような口調で虎徹は声をかける。
「本当に信じてもいいんですか。だって、虎徹さん………僕に何も言わずにヒーロー辞めるつもりなんでしょ?」
ここで、あっさりと最悪の一言をバーナビーは一つ落とす。
それは音を立てて、虎徹との保っていた均衡が崩れることを示していたとしても、この場では言うしかなかったのだ。
それはもう虎徹のことを配慮する気持ちさえなくなっていたという証拠でもあった。
「…な…んで、知って………」
もはやとぼけるとかごまかすとかそんな簡単な次元で済まされるものではないことを、虎徹は一瞬で悟った。
もっと大きな渦に巻き込まれているような感覚に襲われる。
ただ肯定だけをする曖昧な言葉だけしか口からは出ない。
「同じ能力ですよ。気が付ない筈がないでしょう。最近は貴方にサポートしてもらっていますけど、元々能力発動時間を考慮して犯人逮捕劇は頭の中に組んであるんです。それが崩れたら…おかしいなと思ってヒーローTVの録画をすべて見返しましたよ。隣にいながらも全く相談はされない。そして録画を見て全部を知った。その瞬間の僕の気持ちわかります?」
元々調べ物は得意な方で、さし当たった能力減退という言葉は簡単に連想出来てしまった。
能力が衰えているヒーローの末路なんて一つしかない。
それとここ最近の虎徹の不安定な様子を組み込めば、自然に辞めるという選択肢しか浮かばなかった。
「………すまなかった。ずっと言おうと思っていたんだ」
ハンチング帽を脱ぎ胸に当てて、虎徹は謝罪の姿を苦々しい表情と共に見せた。
「別にもう謝らなくていいです。全部気が付いていて、でも気が付かないふりをして、辞めるのも聞きたくないから遮っていたのは、僕の方ですから」
わざと虎徹が言い出すタイミングを奪ったのは確かにバーナビーの方だった。
だからこそ、もしかしたら相談をするタイミングさえも見失わせてしまったのかもしれないが、それでもいつか相談してくれるのかもしれないと期待をして待っていた夢幻は儚かった。
「もしかして、お前がヒーロー辞めるって言ったのも…そのせいなのか?」
ヒーローを続ける自信がないと最後に会った時、捨て台詞のように言われた言葉だった。
虎徹が辞めようとしているのに、バーナビーに先に辞めると言われては、二の句を告げられなかったことは確かだが、それが本心かどうかまではわからなかったのだ。
「貴方がヒーロー辞めたら、ご家族や娘さんのところに行くつもりなんでしょう?こんな状態の僕を捨てて………」
完全に恨み言よろしくバーナビーは言った。
もはや虎徹に対することは恥も外聞気にしているほどの余裕なんてなかったのだ。
「俺は…お前を捨てるつもりは………」
そこまで苦言して虎徹は言葉を止めた。
確かに言われた通り、バーナビーから見ればそう捉えられてもおかしくないのかもしれない。
優柔で曖昧な態度をとり続けてきたことに変わりはないし、何より家族には仕事を辞めて実家に帰るとはっきりと伝えているのだから。
「僕の隣からいなくなるってことは、そうとしか考えられない。僕には、もう虎徹さんしかいないのに」
「それは、十分わかった。だが…」
バーナビーがもはやこの世界で一人きりになってしまって、その救いの手が一気に自分にのしかかっていることは重々虎徹にも理解が出来た。
だからといって簡単に両方を掴みとれるほど世界は甘く出来ているものではないと、今まで家族をないがしろにしてきた虎徹は一番にわかっていた。
「なら、選びやすいように質問します。
もし、崖から僕と娘さんが落ちそうになっていたとして、どちらか1人しか助けることができない。どちらか一方を助ければどちらか一方は崖から落ちてしまう。貴方はどちらを助けますか?さあ、選んで下さい」
ありふれた心理テスト…しかし最低最悪の内容をバーナビーは質問として提示した。
それもなるべく明るく言ったのだ。
「バニー!」
眉間にしわを寄せて、虎徹は声を上げてその名前を呼んだ。
「怒って貰って構いません。でも今の僕にとっては、そういう状況なんです。理解してもらえましたか?」
バーナビーは、もう自分が本当に崖にでも縋ってやっと生きているだけの存在にしか思えなかった。
虎徹という救いがあるからこそ、なんとかギリギリ保ってバーナビーという形成がなされている程度の。それが崩れる瞬間は本当に近かった。
今ここで虎徹がヒーローを辞めていなくなってしまうことの、極端な例を出しただけのつもりだ。
「なら、先に俺の質問に答えろ。もし崖から落ちるのが………お前の父親と母親だったらどうするんだ?どちらも選べないだろう。俺にとって、これは…そういう質問なんだよ」
元々選んではいけない選択肢なのだと言い聞かせるように、苛立ちを抑えながらも虎徹は反対に切り替えしてやった。
虎徹は娘である楓もバーナビーも同じく等しく愛しているのだ。だからこそ、選択肢なんてはじめからないに等しかった。
「そうです………僕は結局どちらも選べません。だから、どちらも助けることが出来ない。二人とも死んでしまって、見捨てた僕もこうやって死んでしまうんです」
闇がどこまでも渦巻いてバーナビーを支配するように、暗く伝えた。
結局は、虎徹がバーナビーを選んでも選ばなくても、破滅の道しか用意されていないのを示すように。
「バーナビー………わかった。悪かった。俺はお前を見捨てない絶対にだ………」
激情に飲まれ込むバーナビーを救い上げるように、虎徹はぎゅっと抱きついた。
どれをなにをいっても、バーナビーはもう変わらない。
愛されてしまった愛してしまったからこそ、結局自分に残された選択肢は初めから一つしかなかったのだ。
「それなら、何か証しを下さい。もう記憶を信じられない僕の為に」
虎徹とはキスもセックスも数えきれないほどしたけど、結局手元に残るものは何一つとしてなかった。
今信じられるものは、そんな物にしがみついて生きるだけだったのだ。
無意識のうちに虎徹の物を収集していたのは、自分の記憶が信じられないからこそだったのだろうか。今はそれさえもはっきりとしない物になってしまったが。
虎徹が酷く困った顔をして、バーナビーの顔を見ているのがわかる。
そうに違いない。いきなり証しと言われても、プレゼントも何もかも持ってきていない、その身体一つしかないのだから。
そうしてしばらくすると、すっとバーナビーの目の前に虎徹は左手の薬指だけを立てて見せる。
「………この指をお前にやるよ。指輪は外したくても、もう外れないんだ。一度も外したことがなかったから」
きらりと鈍く光る銀色を一度も撫でずに、虎徹はバーナビーに差し出した。
これで虎徹自身も覚悟が出来たと示すように。
「…いいんですか?本当に貰いますよ」
これからすることを本当に虎徹がわかっているのかはわからないからこその、改めての確認。
鼻先には、かつては嫉妬に踊り狂ったことさえある、虎徹の結婚指輪がある。
これを何度外してもらいたいと思って、でも一度たりともそれを虎徹自身に言ったことはなかったのだから。
「ああ、好きにしろ」
ふっと目を閉じて、虎徹はその瞬間を待った。
何をされてもいいと本当にどこまでも思ったのだ。
バーナビーは、ゆっくりと虎徹の左手薬指に自身の唇を寄せる。
ぱくっと軽く甘噛みするように先端だけ前歯で噛むと、カチッと形の良い爪と接触する音が鳴る。
少しずつ浸食するようにどんどんと先へと進むと、深爪の虎徹の爪はあっという間に飲み込まれる。
そのまま止まることはせずに、第一関節の僅かなくぼみをすぎて案外平たい第二関節を過ぎると少しだけ角ばった接続部を過ぎる。
そして目的の銀の指輪に到達すると、バーナビーは何事もないように指輪ごと虎徹の薬指全てを丸ごと口内に含んだ。
薬指の根本に軽く何回か歯を当てると、すべらかな指肉に歯型がついていくのがわかる。
虎徹の指を口に入れている状態ではマトモにしゃべることなんて出来ない。
だからこそ、準備はいいですねと確かめるように何度か繰り返したのだ。
ふっと力も込めずとも、バーナビーが発動するのは自身のハンドレットパワーで、その瞬間に僅かにビクリッと虎徹が震えたのが指先から伝わってきたが、もう止まらない。
狙い定めた位置は変えずに、少しだけ口を大きく開けたバーナビーは、そのまま見せつけるように虎徹の薬指を噛み切った。
薄い肉が千切れると、次には直ぐにゴリッとした指骨が砕かれた音が周囲に響いた。
「!!!!!」
そのあまりの痛みに、虎徹は声さえ叫ぶことはできなかった。
今は緊張しているからこそこの程度なのかもしれないが、それでも尋常ではない部分の痙攣さえ感じる。
かつて虎徹の左手の薬指が存在していた筈の部分には、もう何もなく、ただ切り口から無数の流血がぼとぼとと爛れ落ちるだけだった。
近寄っていたバーナビーの膝元が、赤から段々と黒に染まるようにただ濡れる。
もぎ取られた虎徹の薬指はバーナビーの口内に残ったのだが、それをバーナビーは噛まずにゆっくり指先から飲み干した。
ごくんっと、バーナビーの喉の動きに合わせて飲み込まれていくのがわかる。
さ よ う な ら と、もしかしたら虎徹は心の中で呟いたかもしれない。
一通り満足そうな顔をしたバーナビーは、次に自らの舌を差し出して虎徹に見せた。
その上に鎮座していたのは虎徹の結婚指輪で…虎徹が明確に確認する前に、さっとバーナビーは右手でそれを摘み上げた。
結婚以来外したことのない虎徹にとっては、久しぶりに単体で見る指輪だった。
内側に彫られた虎徹と妻のイニシャルが視界に入る。
「この指輪は、僕が奥さんの墓標に返してあげます。もう、虎徹さんには必要ないですもんね」
とても素晴らしい提案をするかのような口調でバーナビーは言った。
「……………ああ」
目を伏せながらも確実に虎徹はそれを伝えた。
もう自分は選んでしまったのだから、未練にすがらないということを示すために。
「さあ、次は虎徹さんの番です」
少し立ち上がったバーナビーは続いて、虎徹の唇に自身の形の良い左手の薬指を押し当てた。
どこまでも、同罪を求めるように―――
全てが終わった後、二人は両手を絡める。
その、お揃いのちくはぐさが何よりも愛おしいから。