鏡へのキスなんて冷たいばかりで、自分は一体何をしているのだろうと、そんなことは無駄な足掻きだとバーナビーは思っていた。
人間が持ち得ている無限の可能性は日々進化し続けていて、バーナビーの世界では人の助力による科学が著しくも目まぐるしい発展を遂げていた。対してバーナビーが知ってしまった鏡の中の世界では、自分たちの世界では疎んじられているNEXT能力が更なる発展を遂げている。その進路はまるで違う。
もしかしなくて、他にも異なった可能性の未来がある世界が存在しているのかもしれない。バーナビーは、全てのパラレルワールドの情報を手に入れることが出来るわけではなかったが、詳しく共有することの出来た違う世界をずっと興味深く観察していた。
あくまでもあちらの世界の自分を通してしか見る事の出来ない世界ではあったけれども、4歳を契機に…こちらの世界とは随分と方向性が分かれたようだった。
それから20年、鏡の中の自分はただひたすら両親の仇を討つという全ては一つの目的の為にだけ生き続けていたように思えた。そうして、その局面で出会ったのが鏑木・T・虎徹という人間だった。
おそらく初めてだっただろう。あれほどまでに、あちらの世界のバーナビーの心を揺るがした人間は。それほど虎徹は、鮮烈で衝撃を与える人物だった。知らぬ間にどんどんと虎徹の存在感が増し続けていく中で、比例してバーナビーも彼の姿を見つめ追い続けることになった。
そうして理解する。自分も、虎徹に会いたいのだと。愛してしまっていたのだ。
偶然が必然となってやってきたのは、機械の故障からだった。舞い降りる翼を見つけてしまったバーナビーは、鏡の中の世界の虎徹と出会ってしまう。
それはとても短い時間だった。それが名残惜しくなかったのかと聞かれれば、それは嘘になってしまうかもしれないが、換わりのように置いていかれたのが、このメモだった。
そこに書かれていた住所はオリエンタルタウンの中の一角にあった。
バーナビーは早速両親と共に勤めている研究所に休暇を申請し、一人列車に乗って旅立つ。
両親は色々と仕事が忙しく他人様の子よりはそれほど出かけにつれてもらった記憶もなく、学校行事以外でシュテルンビルトの外へ積極的に出るのは初めてだったのかもしれない。
列車の窓からは、まるで見慣れぬ外国に来たかのようなのどかな田園風景が広がっている。シュテルンビルトが人種のるつぼで様々な文化を見る事が出来る都市であるとはいえ、近隣都市を逸脱するほどの科学的に進化しすぎている街なので、ここまで文化が特化しているのはチャイナタウンに迷いでも混まない限りあまり見かけはしないのだ。
何度か私鉄のローカル線を乗り継いで降りた駅も簡素だった。切符を確認するのも男性駅員がやっていて一応券売機はあるようだが、改札も出口も一つで実にわかりやすい。時間的には休日の夕方なので、たまたま地元の学生が部活帰りらしく帰宅するために乗り降りしている姿が一番目立つくらいだった。
改札を出ると「ようこそオリエンタルタウンへ」と書かれた看板と変わった朱色の独特な門などが迎えた。あれは一体何だろうとバーナビーは軽く首を傾げた。初めて見るが、いわれなどが書かれた看板も見当たらないから後で調べようと思った。
駅前にタクシーの乗り場はなかった。いわゆる待ちタクシーは一台もないのだ。最近ではかなり珍しい部類に当たる固定電話の横に、一応タクシー会社の連絡先が書いてあるから、電話をすれば来てくれるのかもしれない。
先にバーナビーは携帯電話を開き、駅から虎徹の実家住所までのルートを検索した。やはりそれなりに距離はあるが、歩けない道のりではないと判断をして、タクシーを待っている時間よりはそちらを選んだ。
駅周辺はそれなりに商店街があって人もいて開けていたが、そのシャッター通りを過ぎれば、とたん道のりは寂しくなる。おそらく市道だろうが、山や田んぼが多いので見渡しはとてもいい。遠くに郊外型のショッピングセンターが見えて、混み合う車が連なっているのだけは目に止めた。
「あれ、かな」
随分と歩いてそろそろ目的地だと携帯電話のナビが示している。
あまり周囲に家がたくさんあるというわけではないので、ナビから見た地図から大体の見当をつけた。
直ぐにその家には近づかず、少し離れた場所にある木々が連なる大木の横でバーナビーは足を止めた。
その表札は漢字表記なのでバーナビーが正確に理解出来るわけではないが、さすがに鏑木という文字は何度か視認したことがあるので、確定だ。
外からは間取りはよくわからないが、この日本式の平屋が虎徹の実家だろう。
正直、ここまで来て今更なのかもしれないが、バーナビーは自分の行動が突飛過ぎているのだとはわかっている。
こちらの世界の虎徹は、バーナビーのことを知る由もないのだから。
これはバーナビーの自己満足で、だからこその始まりに過ぎない。
「ああ…一体、出会いはどうしよう」
考えるより先に身体が動いてしまったので今に至るわけだが、少なくとも虎徹がどこにいるのかは掴まなくてはいけないから、これは無駄ではない。ただ…正面切って行くほどの勇気はまだ出ないからこそ、観察に留まるのだ。
バーナビーが注視する中で、変わらぬのんびりとした雰囲気だけが流れる虎徹の実家の玄関先に初めての変化が訪れた。やってきたのは元気な足音で、バーナビー側から見て反対方向から駆けってくる人物がいたのだ。
「楓…ちゃん?」
何度か鏡の向こうの世界で何度か見かけた事のある活発な少女。虎徹の娘である楓が、カバンを持って鏑木家の玄関へと入って行ったのだ。
どくんっと、自分でもわかるくらいにバーナビーの胸が高鳴った。
この世界での虎徹はヒーローではない。それは確定的だった。ヒーローのような危険な仕事をしていない限り、娘を激愛している虎徹は一緒に住んでいる…そう思うからだ。
意識するより先にバーナビーの足がひとりでに動いていた。
外の道から鏑木家の玄関先に繋がる門扉まで近寄ると、ほんの少しだが談笑している声が耳に入って、バーナビーは慌てて外の生け垣まで戻った。あまり背の高くない生け垣ではあったが、屈めば何とかバーナビーの長身も隠れるくらいだ。
周囲に家屋が少ないのと田舎道のおかげで行き交う人や車はないので、そのバーナビーの不審さに疑問を持つ人間は誰もいなかった。
生け垣の隙間から鏑木家の庭を伺う。それほど広くはない庭に家庭菜園にしては立派に野菜が植えてある。
バーナビーはその場でじっと息を殺す様に様子を見ていた。
「あ、なんか。雲行きヤバくね?とりあえず、洗濯物は避難だな」
突然、バーナビーの耳の中を飛びぬけてやってきた声があった。それは、ずっと鏡の向こう側で馴染んでいた声で、数日前…初めて肉声を聞く事が叶った、あの………
「虎徹さん…」
口の中だけでバーナビーは、まるで噛みしめるように呼んだ。今は…決して届かぬ、その名前を。
もちろん虎徹は生け垣の向こうにバーナビーがいるなどとは知るわけもなく、軒先から簡易サンダルを引っ掛けて、庭の洗濯物干しへと近寄った。
本当に生け垣さえなければバーナビーの鼻の先にまるでいるかのように、虎徹はせっせと洗濯物カゴを持って丁寧に干してあるシャツやズボンを鼻歌交じりに取り込んでいる。
別段変った様子もなく、何度も鏡の向こうで見た事があるいつもの虎徹にしか見えない。
バーナビーは、手を伸ばしたり横に移動したりとあくせく作業する虎徹を凝視する。
それほど多い量ではなかったので、もうすぐ洗濯物を全て取り込み終えてしまう。そうしたら………もう、もしかしたら。
まるで生涯の別れに立ちあってしまったかのような錯覚に捕らわれかけた。
少し手を伸ばせば直ぐだ。それがどんな無様な形でも立ち上がってしまえば、それだけでようやく夢にまで見た虎徹と念願に出会う事が出来るのだ。
意を決してバーナビーが身を上げようとした時だった。
バーナビーにとっては残酷な声が飛び入って来る。
「あら、洗濯物取りこんでくれたの?」
「なんか天気がびみょーな感じだったから、とりあえずな」
「昼間は曇り空が続いていたけど、乾いたかしら?」
「薄手のシャツとかは全然平気だな。厚手のセーターは一応室内干しにしとくよ」
ゆっくりと虎徹の隣にやって来たおだやかな女性が居た。美しい髪は黒く長く慈悲に満ち溢れた表情をたくわえて…娘である楓ちゃんに良く似た、バーナビーの知らない………それでも誰だかわかってしまう女性が。
ああ…見通しが甘かったのだ。何を勘違いしていたのだろうか。所詮、ただの思い上がりだったのだ。勝手に期待して、勝手に落胆して…なんて自分はわがままなのだろうか。
ほら、鏡の向こうの世界のバーナビーだって両親を殺されていて、全然違ったじゃないか。それなのに虎徹が全てありのままだと思い込んだ事の方が間違いだったのだ。身勝手に決め付けて…全てが同じだなんてそんな都合の良すぎる事なのだと、事実が落ちてきたのだ。
期待をするから裏切られる。だったら最初から期待しなければいいのに、もうどうしようもないのだ。バーナビーの想いも何もかもが簡単に打ち砕かれてしまい、儚くも全てが潰えた。
「あ、お母さん。何、洗濯物を拾おうとしているの?」
もう一人の声が割って入ってくる。娘の楓がやってきてこれで家族三人勢ぞろいだ。
温かな家族。妻と子との幸せすぎる世界だけが、この場の虎徹には満ち溢れていて、バーナビーにいつも通りの団らんとした家族風景を見せつける。そして、一辺の曇りもなく絶え間ない笑顔が突き刺さりバーナビーの心を容赦なくえぐるのだ。
これが、虎徹が一番に望んだ姿なのだろう。そうして、バーナビーを尻目に繰り広げられ皮肉を見せつけるのだ。
「前傾姿勢とか絶対駄目!お腹の子によくないよ。私、絶対弟がいいんだからね!ほらっ、お父さんも手伝って」
笑い声が聞こえる。一陣の隙間さえないほどの、とても踏み込むことは出来ないまるで異空間のような情景だけが繰り広げられているのだ。
目の前に繰り広げられる光景にバーナビーは呆然と眺めていた。何も言えない…口を出すことさえ。
世界はそんなに優しく出来ていないのだから、バーナビーはいらないのだ。バーナビーがどんなに虎徹を求めても、決して必要とはされないだろう。
知らぬ間にぽつりぽつりと雨が降ってきても、随分と長くその場にバーナビーは居続ける。
そうして………
「勝手に愛しましたけど…でも簡単には嫌いになれないから厄介だなあ。責任とって下さいね、虎徹さん」
はじめましてのさようなら
それからのバーナビーは、自宅の自室と付属している研究施設に籠りがちになった。
今までとはうってかわり言葉も少なく、あまりの虚ろな形相と悲壮感に両親は心配をして何度も声をかけたが、その理由を話すことは一度たりともなかった。一応バーナビーも成人しているのだからと様子を見るようにと、両親もそれでとどまる。
そんな日々が続いた、ある日。とうとう、その日がやってきてしまう。
全ての準備を終えたバーナビーは自室の磨かれた姿鏡の前に自身を晒す。ようやくだ…もう確定的じゃなくても何でも良かった。ただ、嫌だったんだ。だって………
「この世界に僕の望んだ虎徹さんはいなかった。そうですよね?」
まるで鏡に問いかけるかのようにバーナビーは声を出した。
相変わらずバーナビーの見ることのできる鏡の向こうにあるあの世界では、違う自分と虎徹が幸せそうに暮らしているのが分かるのが、どんなに辛いことか。言葉ではとても表現仕切れなかった。
「こんな世界にこだわる方が馬鹿馬鹿しかったんだ…僕の虎徹さん………僕だけの虎徹さんを探しに行けばいい」
良さを知ってしまったからこそ妥協なんて出来ないから。バーナビーの理想の虎徹が必ず他にいるのだと思って。
そうすれば、今度はきっと好きになってくれるだろうから。それだけを信じて…すがって、バーナビーは生き続け、いつまでも探し続ける。
無限の可能性を求めて旅立つように。
「虎徹さんとキスをして……本当の僕が始まる―――」
酩酊をうつように、バーナビーは死体として連れて来た、この世界の虎徹にキスをして出立した。それは魔法のように甘く感じて。生きている虎徹なら、きっともっと甘い。
ここではない世界で、二人はきっと幸せになるのだから。