毎日、同じ生活を繰り返していることに何の疑問を持つ必要性があるのだろうか。
特にサラリーマンがそんなことを考えてはいけない。
鏑木虎徹は、サラリーとしての対価を金銭で貰っている会社員である。
たとえそれがヒーローだとしても、命をかけているかいないか、その程度の違いしかない。
スタントマンより並んで危険を伴う職種についていると、ありきたりな生命保険に入れない。それくらいだ。
そんなことをぼんやりと考えるのは、狭いバスタブの中。
しゃこしゃこと景気の良い音が虎徹の脳内に響くのは、そこでのんびりと歯磨きをしているせいだ。
足を心行くまで一杯伸ばせるほど広いバスタブではないのだが、それでも両足をある程度のばすことが出来るから、慣れれば十分。
性格的に一本一本丹念に歯を磨くなんてことはしないし、鏡もこの場から出ないと見えないのだから、そもそも丹念には出来ない。
わかっていても、これは長らくの習慣であり癖でもあるという自覚が立派に虎徹に宿っているのだから構わないのだ。
虎徹は、この時間をとても気に入っていた。
最初始めたキッカケは、不規則なヒーロー生活を送っているため、夕食後寝る前につい歯を磨くのを忘れてしまったからだっただろうか。
風呂なら絶対忘れないし、バスタブにゆっくりつかるための理由付けとしてももってこいだった。
そうして最近の一番の理由は、考えごとをぼうっとするのに適していると気がついたからだ。
風呂場は、この家で一番静かな場所である。
ある程度防音対策がされているのかどうかは知らないが、作りが頑丈であることに間違いはないだろう。
そんな静かな空間だけが、ゆっくりと与えられているような気がして、色々と考える。
それが今日この場所で最初に思った、単純な疑問だった。
ヒーローであることには十分に満足している。
その結果がサラリーマンというのも仕方ないのであろう。虎徹が生まれる前からそのシステムは確立されつつあったのだから。
だからこそ、一般人よりは多忙で気が抜けないものの、自分が望んだ筈の充実した毎日を過ごしている。
違和感を覚えるなんておかしいことだ。
この毎日に満足している。これしか自分は生きられない。生きることを許されていない。
………そう、自分を宥めて言い聞かさせるように、バスタブを出た。
タオルで軽く水気を拭い、次は厚手のバスタオル。用意したスウェットに着替えて、ドライヤーで軽く髪を乾かし猫っ毛を整える。風呂上がりに、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをコップ一杯分ほど飲み干す。そうして、ほどよく温まった身体をベッドへと向かえば、すぐに眠気が襲ってくる。朝は目覚ましが鳴るより若干先に起きてしまう。手早く洗顔し、髭を整え馴染みの整髪料で髪をまとめる。クローゼットからいつもの服を取り出して着替えて、朝食はセットしておいたトーストや目玉焼きなどで軽くすます。時間の余裕ないままに、出社。オフィスの横の席にはパートナーのバーナビーで、奥には経理のおばちゃん。たまにロイズさんのお小言。未決済の山。一度出動要請が鳴れば、途端にだらだらは許されなくなり、忙しくなる。素早くアンダースーツに着替え、斎藤さんに頼んで装備を整えて貰う。ヒーローTVの先行情報から、他のヒーローの活躍を聞きつつも、バイクで二人揃って現場に向かう。タイミングが良ければ、犯人確保。人命救助。建物破壊はデフォルト。運が良くか悪くか出動要請がなければ、書類仕事をこなしジャスティスタワーのトレーニングルームへ行き、同じヒーローたちと他愛ない会話をしながらメニューをこなす。程よい時間に帰宅。外食は少ない。接待食事は大抵バニーちゃんのお仕事。自分はチャーハンしか作れない。休日。娘に電話したり、長く休みが取れればたまに会いに行ったりすることもできる。別段用事がなければ、普段はなかなか出来ない日用品や服を買いに出かける。映画を見たり、レトロな音楽を買いに行ったりすることもある。適度に部屋の掃除は、あんまりしないかもしれない。酒瓶が転がっているのは、男一人暮らしのやもめである。寡夫なのだから仕方ない。
繰り返し。繰り返し。繰り返し。
毎日、バスタブで歯を磨くときに、はっと気がつく時がある。
何もずれない、ぶれない時間の中で、確かに日にちも時間も経過しているのに、少しずつ違うことはあるのに、根本は変わらないということを。
変わることを、もう自分が望んでいないのだと思っていた。
一人で生きている世界は、幸せなはずだ。幸せだよな?幸せってなんだ。生きているだけで幸せといえるのだろうか。
あれ…何か前と違うのかと、虎徹はブラシをこする手を止めた。
はたりと何故かこの瞬間に思いだす。
今日は、仕事帰りに馴染みであるロックバイソンことアントニオに声をかけた。
夜は時間があれば、飲み友達でこれはいつものことだった。
行きつけのバーにひっかけて、空いているカウンター席の少し端の方へ二人並んで座る。
まずは二人揃って同じウィスキーを注文し、カツンッと乾杯。テンションは上がる。
適度なつまみは投入するが、完全に酒を飲みに来ているのでどんどん追加。楽しいな。
アントニオと咲く話題はヒーローのことだったり学生時代の話だったりと延々と尽きず、そもそも二人とも同じ経歴なのだから、話題が途切れることもない。
ただ、少しだけ虎徹は親友の態度に引っかかりを感じた。
確かに自分と比べて気遣いをするタイプだが、いつもはもっと打ち解けた感じがしたはずだ。
「なんだよ…今日ノリ悪いな。どうしたんだ?」
思ったことは直ぐに口に出すのが虎徹の性格で、酒混じりでなくとも、問いただすよりは幾分簡単にその言葉は軽く口から出た。
「あ、いや…というか。俺なんかと飲んでいていいのか?」
ショットグラスをテーブルに置き、少し苦言交じりにアントニオは虎徹の顔色を少しだけ伺った。
戸惑いの色はアントニオの方に勝敗が上がっている。
「は?何で。別に、俺今日何にも用とかないし」
今度は、はてと虎徹がぐるりと頭を巡らす番だった。
アントニオにそう言われる理由がさっぱり思いつかない。
「いや…だって。お前たち………付き合っているのだろう?」
明確な主語を語らぬままアントニオは若干言葉を濁した。
その相手の名前をこの場で出しても良いか悩んだからこその苦渋のぼかしらしいが、虎徹にはどこまでもわからないだけだ。
「お前たち………?って、誰?」
アントニオの表情とは裏腹に、虎徹はきょとんとした顔を示した。
「だーかーら。お前のパートナーだよ!バーナビー」
今日は、そこまで酒回りが早かったけなと思うほど、虎徹が本当にわからない顔をしたので仕方なく固有名詞を告げられる形となる。
一応周囲に知れ渡らないように最後の言葉だけは小声のようだ。
バーナビーと言っても、世の中にはたくさんのバーナビーと名のつく人間がいるだろうが、気分的に小さくしたかっただけのようにも見える。
「あ、バニーちゃん?あ、うん。そうだったね。そうだ。そうだ…」
やっと質問に納得したという表情で、虎徹は何回かうんうんと頷いた。
そう改めてしっかり他人から言われてみると、自分とバーナビーは付き合っているような気がする。
確かにそんな話があったのだ。
二人で並んで虎徹の実家に挨拶にいったこともあるし、マーベリックさんにも改めて報告をし、バーナビーの両親の墓前にもきちんと告げた。とても素晴らしい。完璧じゃないか。
「だから、そうじゃないだろ。俺と二人で飲んでいて大丈夫なのかと言っているんだ」
本当にわかっているのかあやふやなくらい適当な感じだったので、アントニオは酔っ払いにもわかるように少し声を張り上げた。
鈍感なのは昔からだったが今回は本当手に負えない様子だと少し諦めた顔さえしている。
「うーん。別にいいんじゃね?別に何か言われたことないし。大体、お前とは昔から飲んでるじゃん」
「それはそうだが…」
そういう問題なのかとアントニオはよくわからなかったが、何を言ってもあまり通じそうになかったので深く突っ込まないことにされた。
虎徹は元既婚者だしうまくやっているのだろうと思いたいのか。
まあ甘々のベタベタを見せつけられるよりマシだからいいがと、ぐっと言葉を飲み込むのも虎徹にはそう単純にはわからない。
そもそもアントニオは、バーナビーから見えないプレッシャーのようなものをかけられたことが一度もなかったのだ。
最初の結婚相手が異性だった時とは違い、今回は同姓で同僚ということで、色々と考えて事実を知らされてから虎徹の親友としてのポディションから少し距離を置くべきかと思ったが、全く気にされていないことに驚いた。
別にアントニオは虎徹に対して友情以上の感情など持ち得ていないのだが、それを知っても知らなくても通常ならば色々と思うことがあるだろうと思ったがしかし、虎徹もバーナビーも何も変わらない。
それは隠すのがうまいのが、いやストイックな男であるバーナビーはともかくとしても虎徹がそういったことに長けているとはあまり思えなかったので単純に意外なのだ。見直した。
「お前達、トレーニング中とかでも普通だから、ちょっと気になってな」
だから、思わずもう一言苦言を落とすくらいはいいかと思った。
「普通?何、言ってんだ。それが一番じゃないか」
素早くはあったが、また微妙な切り返しを虎徹はした。
何か特別に訝しがられる意味が全くわからないのだ。自分はどこまでも普通だというのに。
「ま、そういう関係もいいのかもな」
そんな勝手な納得をされて、その話題は終わってしまった。
次のグラスが運ばれて来たので、アントニオがそちらに視線をやってしまったからだ。
何?何もしていないのが、何がおかしい。
虎徹は歯磨きの手を止めて終わりとする。バスタブの横についている蛇口の水を捻って、がらがらと口をすすぐ。
そんな最中でも、何か頭がひっかかる。
「バニー、バニー、バニーちゃん、バニーちゃん、…………バーナビー…………」
ありとあらゆる自分が今まで読んだことがあるだけのバーナビーの名前を、虎徹はぼんやりと連呼する。
確認するように、空に浮いた何かを掴むように、狭い浴室に自分の声がやまびこのように響き渡る。
そうやって名前を繰り返している瞬間だけはバーナビーのことしか考えられないようになっているはずなのに、どこまでも虎徹の頭は虚ろだ。
このキッカケはなんだっけ?なぜかバーナビーに関してはよくわからない。
頭が痛い。まるで考えるのを全身が拒否しているようだ。
なんで駄目なのだろう。自分は普通に生きているのに。普通に普通が一番だと思っている筈なのに。
なんの為に生きている?誰の為に生きている。自分の為、娘の為、家族の為、市民の為―――
考えてはいけないと誰かが拒否をする。
「………おかしいな。こんなに物覚え悪かったけ?年かな」
独り言を呟きながら虎徹はバスタブから立ち上がった。
用意してあったバスタオルを手にとるとざっくりとだけ水気を払い、髪もろくに乾かさずにふらふらと寝室へと足を向ける。
照明をつけるのも忘れていたため、ベッドサイドのランプだけカチリとつけると、仄かな明るさだけが虎徹の手元を照らす。
何となく簡易引き出しの一番上を開け、昔から使っている黒革の手帳を引っ張ってきた。
前はメモ帳代わりに使っていたが随分とご無沙汰でしまい込んでいる物だ。
パラパラとめくって最初の方を見ると、日記代わりにもしようとしていた姿が見えるが、マトモな長文的内容は三日坊主が関の山。
現在進行形で、パソコンで毎日の業務日誌を書くのでさえ億劫がっている性格なのだから仕方ないのかもしれないが、それでも手帳には日付と一言メモのような形式で数行ずつ綴られている。
紙ベースの方がアナログ体質な虎徹には合っているのかもしれないという程度の認識であったが、いくつか眺める形となる。
前のことを鮮明に覚えているわけではないが、確かに普通の毎日がそこには書かれていた。
ほんの少しの変わった出来事や事件の覚書の羅列が続く。ただそれだけな筈だったのに。
朝からの出来事はあるのに、夜のある瞬間だけでみんな途切れている。それは風呂場で歯を磨いた瞬間から。なぜだろう。どうしてだろう。
夜だって出撃要請もあるし変化にはそれなりに富んでいる筈なのだが。
思わず虎徹は最新の方へ当たる日記の日付を見た。
文章はいつも通り何気ない内容。しかし、自分でこれを書いた記憶がなかった。
日記と言っても、それは毎日書かれているわけではなく、気がついた時だけ書かれているのだと気がついたのは最後で。
一か月前、二週間前、三日前、一日前、区切りが………。随分と定期的に短く。ああ、どうして。
「………大丈夫ですか?」
暗闇の中で響く声は通り、確かな存在を感じ、ふっと虎徹は後ろから目隠しをされた。
血の通っている筈の右手で完全に視界は覆われて、より暗い世界へとどこまでも歓迎される。
パタンッと虎徹が持ち上げていた筈の手帳を手元からすくわれた。
「最近また情緒不安定になっているようですけど」
隠された手を軽く振り払いで普通に振り向いて確かに誰かを認識しても、まるで驚かなかった。
バーナビーがそこに存在しているということを、まるでありふれた日常のように虎徹は自然に受け入れていた。
もはや疑問に思うはずもない出来事なのだから、当たり前なのだ。
「薬、きちんと飲みました?」
続けて、とても心配そうに耳元でささやかれる。
「薬?」
指摘されて、口に出しても虎徹にはなかなか実感が沸かない。
何だろう。とても大切な物なのに、それだけはわかっているのに、脳内に警鐘が鳴り響いている。
「ほら、お風呂上りにいつも飲んでいる―――」
そこまで明確に言われてようやく浸透する。虎徹は理解をすることが許された。
そうだった。ミネラルウォーターと一緒にいつも飲んでいるじゃないか。
バーナビーに貰ったとても大切な大切な白い錠剤を。
でもさっきは飲み忘れてしまった。駄目だな、自分は…と虎徹は心の中だけで思う。
「バニーちゃん。何だか最近、薬があんまり効かないみたいなんだ。今度、もっと強いのをお願いね」
記憶がすっぽり抜け落ちているけど、これは思い出してはいけない記憶だと、また封をする。
「そうですね…わかりました。用意しておきますよ。虎徹さんが、普通の生活を続けるのに必要ですからね…」
自らが虎徹の生活を壊した癖に、当たり前のようにバーナビーは言う。
でも、だって………記憶を改ざんする薬を望んだのは虎徹自身だった。選んだのだ。
虎徹は、バーナビーからは逃げられないからこそ、全てを放棄した。
もう、どうでもよくなって、全てバーナビーの望んだままに過ごすことにしたのだ。
もしも、バーナビーと触れ合ってしまって虎徹が変わってしまったら、それは嫌で仕方ないのだ。だから、何もしない。されない。
バーナビーは、ありのままの姿の虎徹を眺めることで、愛でる。
抵抗の牙を抜かれ、室内飼い猫のように、安定を約束されてそれ以上は求められない。
役割をこなしての操り人形に対するは、存在の証明をしてくれるただ一人の相手。
変わらない。変わることを許されてはいないのだから。
激しい思いこみの中の世界は平和で、何も考えなくてよいありふれた一日の素晴らしさ。
決められたレールの上だけ走っているのは楽だし、心地の良いことだ。
苦しいこととなんて何一つもない。みんな、バーナビーが管理してくれるのだから。
安らかだ。バーナビーが言うのだからきっとそうなのだ。そうに違いない。
虎徹はいつものように、ふにゃりと笑った。これが虎徹の欲しかった救いなのだから。
一瞬だけ、思い出してまたずうっと忘れる。
この薬を飲めば、変わらぬ虎徹に成ることが出来る。
たとえ鍵が開かれても心を閉じこめて二度と晒さないように、何度繰り返して鎖を幾重にも張り巡らせて。
それが無限ループのように、でも時々解れるからまた新しい薬でリセットする。