男って存在は、生理学的に血に弱いものだと言われてきた。
根性がないと言われればそれまでかもしれないが、医療従事者でなければ耐性がないのは仕方ないだろう。
虎徹も職業柄で生傷が絶えない方ではあったが、流血を伴うというよりはヒーロースーツの性能のおかげで打撲や打ち身の方にお世話になることの方が圧倒的に多い。
怪我をすれば痛覚が刺激をされ、制御するものだと知っているし、わかっていた。
だから、その事態は正しく虎徹の想定外だったのだ。
暑い。じりじりと暑い。
じめっと鬱陶しいくらい暑いのは湿度の高い国独自の暑さらしいが、この場に余計な湿度は存在せず、つまりそのまま暑い。
それが天気によるものならば暑い暑い言うだけでどうしようもならないのだから幾分か諦めが付くのだが、只今の季節は冬真っ最中である。
四季の寒暖の差が激しいお国柄というわけではないが、それでも冬は常にコートを着込まけなければいけないほどの極寒を味わえる。
そんな中、虎徹が室内で食らっているのは適度な暖房ではなく、人工的なライトの眩しさとしての副産物の暑さだった。
撮影には何度も被写体として参加しているが、何分興味がない部類に入っているのでやる気がないから、慣れるわけがない。
スポットライトの向けられた先の中心に居るのは、ご存じ主役のバーナビー様だ。
一番輝く場所にいるから相当暑いだろうに、いつもどおり汗も見せていない。
さすがプロだ。いや、この方面のプロではなかったはずなのだが、下手なモデルよりはこなしている回数は多いだろう。
今や不動の人気としてキング・オブ・ヒーローとして君臨するバーナビーに対する取材と撮影は、歴代最高という話さえ小耳に挟む。
他のヒーローとの最もの違いとして顔を出して平素から活動しているのが、かなり好評らしい。
ヒーローも親しみを持ってもらう時代になったのかなと最初は思ったのだが、単純に違うような気がする。
バーナビーは、なんといっても非常に絵になる男である。
何事もイケメン限定だと気がついたのはいつだろうか。現実は厳しく切ないものだ。
虎徹としてはこのアイパッチを外す気がさらさらないのだから、言い訳がましいことではあるが、バーナビーがここまで甘いマスクをしていなければ、こんなに撮影に呼ばれることもなかったということぐらいはわかる。
こんな日々を虎徹が送るのはとてもおかしいのだが、忙しいのはバーナビーであって自分ではない、コンビとしていわゆる添え物ポディションとしていなければならない。
一応自分の人気も出てきたのだろうかと、そうだろうと思いたい。
案の定、今だって最初に二人の写真を撮った後は着替えを済ませて、レンズ外で見事にちんまりと待機中だ。だるい。暇だ。
自分が試着しているのは一着だというのに、対するバーナビーはまるで着せ替え人形のように何着も何着も衣裳が変わっていく。
虎徹が単純に見ると大変だろうに、本人はそれを楽しんでいるらしくやはり意味がわからない。
忙しいのが好きという人種なのだろうか。
とにかく、ぼうっとしながら虎徹はその模様を眺めていた。
「………あれ?」
ふと気になって口の中だけで小さく声を出し虎徹は、はたりとその場で首をかしげる。
何も意識していないからこそ、その事実に気がついたのだろうか。
目まぐるしく着替えまくるバーナビーだったのだが、どの衣装も長袖であるような気がするのだ。
今が冬だからかと単純にそう思っていたが、虎徹も詳しいというわけではないがこの業界ではワンシーズン先の撮影をコンセプトにするのが当たり前らしいと最近知った。
つまり冬には春や夏にかかる撮影をしているということだ。
それなのにバーナビーの衣装は、確かに薄手の布生地ではあったが、それほどの露出は見られない。
男だから別に露出が必要というわけではないが、前は水着の撮影とかもこなしていたというのに、この頃そういった記憶が全くないのだ。
なんでだろうな。あれ?いつもこんな感じだっけ。バーナビーの涼しげな格好ってプライベートでもいつ最後に見たっけかと思い出せないくらいだった。
ハンサムだから何を着ても似合う男だからこそ、今まで別段気にならなかった謎が、ぽつりと虎徹の胸にもやっと落ちた。
「お疲れ様」
「あ、ロイズさん。もう次の時間ですか?もうちょっとで終わるとは思うんですけど」
スケジュール管理手帳片手に開いたロイズに声をかけられて、時間が押しているのかと思い、虎徹は訪ねる。
今はマネージャーのような仕事をしているが、本来はそっちがメインというわけではないから、付きっきりしてもらえるわけではない。
しかし虎徹は自分でスケジュールを見るほどマメな性格ではなかったから、任せている。
「いや、次の仕事は野外なんだけど、雨降ってきたから日を改めてってことになったんだよ。代わりの仕事もないし時間も遅いから、今日は直帰ね」
ペンで新たにスケジュールに書き込みながら、ロイズは伝える。
「へーい」
ということは、今日はいいけどまた後日のスケジュールが詰まるわけかと虎徹はあまりやる気のない声を出した。
「ここのところスケジュールが立て込んでいたが、バーナビーの様子はどうかね?」
シュテルンビルトの驚異となったジェイクを倒し、文字通りのヒーローになった後のバーナビーの忙しさはいつものことだったが、最近は拍車をかけていたので問いかけた。
「別にいつもと変わらないと思いますよ。バニーは仕事大好き人間みたいなんで。俺もヒーローとしての仕事は好きですけどね。できればこういうのはもう少し遠慮したいのですが」
遠くで二人そろって撮影に向かうバーナビーを眺めながらのそんなやりとりは、いつものことだ。
何度か虎徹はロイズにこれを伝えているが、マトモに叶った試しがない。
虎徹一人ならば嫌でも突っぱねることが多少は可能かもしれないが、パートナーのバーナビーが進んで仕事をしているのだから、そう強く言えるものではないのが事実だった。
そもそも自分たちは広告塔で、それもシュテンビルトのマスメディア業界の金字塔に君臨する会社の雇われ社員なのだから、拒否権など元々ないのかもしれないが、虎徹からすると今までとのギャップと自分が持ってきたヒーローとしての役割が微妙にズレていると感じていて仕方がない。
それがすっごく嫌だとまでいかないし、言われてみれば確かにこういうことも必要だと、バーナビーに対する世間一般の評価を見ていればわかるのだが、難しいなと思った。
「そういえば、ロイズさん。バニーって長袖ばっかりじゃありませんか?路線でも変えたんですか」
シャッター音がいくつか鳴る中で、先ほど浮かんだ疑問を単純に聞いた。
別にそんな深い意味を考えたわけではなく、ぽんっと浮かんだから口に出した程度の認識だ。
「私も詳しくは知らないが、バーナビーの方から言い出したみたいだよ。確か、もうあまり露出する服を着たくないだとか」
「へえー心境の変化ですかねえ」
バーナビーからの指定からだったとは少し驚いたが、パートナーが露出狂な方が心配なので、まあそれでいいかと虎徹は思った。
だいたい何でもオッケーにしたら自分も漏れなく付き合うことになり、余計にこういう仕事が増えるわけだしと、前向きに考える。
「…終わったみたいだね。私は会社に戻るから、後はよろしく」
「わかりました。お疲れさまでした」
伝言と確認に来たロイズを見送ると、さあ今度はバーナビーに仕事の予定を伝えないとなと虎徹は椅子から立ち上がった。
さくさくと歩いて、あてがられた二人用の控え室へ向かう。
バーナビーは衣装室だろうから先に待っているかと、その程度の軽い気持ちだった。
誰もいないだろうと高をくくり、ガチャリと扉を開いた。
「あ…」
部屋の先で着替えをしていたバーナビーが首だけ振り返り、背中越しで目が合い、不意打ちの声が出る。
「なんですか?」
「ロイズさんから伝言。次の仕事が流れたから、直帰だって」
「………わかりました。すみませんが少し着替えているので、外で待っていてもらえませんか?」
「あ…ああ、すまないな」
バーナビーの言葉はとても丁寧だったが、なぜか棘が刺さっているように思えた。
そもそも男同士なのだから着替えくらい別に構わないだろうと言う認識が虎徹にはあったのだが、そういえばああいう無防備なバーナビーを見るのは久しい気がする。
ヒーローとしてアンダースーツ姿ぐらいは良く見かけるが、定期的なメディカルチェックも自分たちが好待遇になったせいか別だし、その他会社の用意する車やロッカールームにはプライベート管理がしっかりなされているから、撮影の時でしか今まで見なかった筈だ。
こんなこと程度で戸惑うバーナビーだっただろうか?今まで。わからない。
虎徹は扉を背もたれにしながら、そんなことを考えていた。
―――最初の正確な時間なんて時計を見ていなかったから覚えていない。
「バニー?」
軽く声をかけるが返事がない。
たかが着替えるのに20分程度もかかるのだろうかと思い、痺れを切らした虎徹は再び扉を開けた。
「って、おい!どうしたんだ。具合悪いのか?」
中に入ると、バーナビーがぐったりと背もたれに身体を預けながらも椅子に深く腰掛けて脚を投げ出していた。
天井を仰ぐようにそれでもまぶしいのは嫌なのか、左手で視界を遮っている。
「入らないでくださいって言ったのに…大丈夫です。少し貧血気味なだけで、いつものことですから」
そう言ってバーナビーは視界を合わせるために、左手を顔の上からどかした。
まだ着替えさえ済ませていないので、最後の撮影の衣装のままだった。
そのまま、おおぶりの襟口がずるりと落ちる瞬間を虎徹は見逃さなかった。
完全に左手が下に降りるより先に、がしっとその手を腕ごと掴んだ。
「………これは、なんだ?誰かにやられたのか?」
虎徹の掴んだその先。バーナビーの左手首には、古傷を含めても軽く十は越える切り傷が見えたのだった。
血がにじむほどの怪我をしているとわかっていても、虎徹は指が食い込むくらい深く掴む形となる。
「…違いますよ。自分でやったんです」
観念して少しあきらめたかのように、話した。
だが、良かれと思ったわけではなく、強引に護身術の応用のように自分の腕を捻ると、捕まれた腕を振り払った。
「自分で?なんでだ」
「僕らの年代では、リストカットの一つや二つ珍しいものじゃありませんよ」
悩みを吐露するわけでもなく、バーナビーは事実だけを淡々と語る。
「………病院には行っているのか?」
それ以上の追求は許さないと言うバーナビーの目から悟ったが、それだけは訪ねた。
「ええ、もちろん。カウンセリングもしてもらっていますし、薬もいくつか処方されています。貧血はオマケのようなものです。安心して下さい。仕事には支障を来さないようにしていますから」
そう言いながら、そっと手首を握り隠すようなそぶりを見せた。
今はこんなのだが、本人的にはイレギュラーだったらしい。
「………そうか。わかった」
それだけ伝えると、虎徹は部屋を出ていくことしか出来なかった。
それから数日が経過したが、あの出来事はまるでなかったかのように二人の関係は変わらなかった。
もちろん双方とも口に出すことはしないし、バーナビーも常に長袖を着ているということ以外では仕事に影響を及ぼすようなこともしなかった。
そんな休日のある日。
バーナビーの住まいのチャイムが外から鳴らされた音がする。
宅配か何かだろうと思い、何気なくモニターを外部へ繋がる玄関へと繋いだのだが、そこにいた姿はパートナーである虎徹であった。
音声ボタンをonにすると軽く声が繋がる。
「よっ、バニーちゃん」
いつものように右手を少しあげて、何気ない仕草をして見せた。それはまるで仕事の延長かのように。
「どうしたんですか?来るとは聞いていませんが」
モニター越しのやりとりではあったが、いぶかしむ声は聞こえているようだ。
大体用事があるなら電話の一本でも入れるものだろうに突然すぎる。
「ちょっとな。中、入れてくんない?」
「………わかりました。5分待って下さい」
そこでぶつりっとモニターを黒くした。
5分後、ロックは解除されて虎徹はロビーに立ち入ることを許される。
前に来たことがあるから、エレベーターをその階に合わせて上へ上っていく。
バーナビーの部屋の前にたどり着き、またチャイムを鳴らすと今度は本人かやってくれて扉を開ける。
「突然来て…何かあったんですか?」
生身で見てもそこにいるのはいつもの虎徹だったが、何かそわそわしているように見えた。そこも珍しい。
「いやあ悪いけど、先に荷物入れさせてくんない?」
微妙な悪びれた様子でそれを示す。
「はあ………って、何でそんなにあるんですか!」
荷物ぐらい…と思ってあまり虎徹の後方をきちんと見ていなかったのを悔やむ。
玄関の通路を開けるように横に避けたバーナビーがみたものは、大手のボストンバックとショルダーバックを両手いっぱいに五つほど抱えて中に入ってくる虎徹だったのだから。
その反応を虎徹もわかっていたらしく、とりあえずリビングへとずんずんと進み荷物をどかっと下ろした。
仕方なく戸惑いながらもバーナビーは後を追う羽目になる。自分の家なのに。
「俺、しばらくここに住むからヨロシクな」
くるりとこちらを向いた虎徹は、極力口調は明るく言ったのだがとんでもない言葉を平然と出す。
「は?何ですか、それ。大体、嫌ですよ」
意味がわからないからこそ、バーナビーは明確に拒否の言葉を示した。
どうして自分のテリトリー範囲に、他人をわざわざ踏み込ませなければいけないのだろうか。
理解できないと両手でアクションを示す。
「ここの保証人、マーベリックさんだろ?一応、確認とって一緒に住むのは了承してもらったぜ。マーベリックさんにはパートナーとして親交を深めたいって伝えたら、二つ返事だったぞ。おまえのことを心配しているんだよ」
一応最低限のことだけはしてきたと虎徹は言うが、最初に言うべき相手はバーナビーではないのだろうか。
最後に押し掛けるように確認とはせっぱ詰まった作戦だ。
「マーベリックさんは、何も気がついていない筈ですが」
「多分な。でも察しているんだろ。お前が情緒不安定なのは」
バーナビーはもう子供ではないから昔ほど勝手な行動はとらなくなった。
事実虎徹が気が付いたのも最近だし、隠すのがうまくなっているのだ。
それでも長年の付き合いで何と何となくわかったのだろう。全てを語らなくても色々と理解が早くて虎徹としては助かったが。
「なんで、わざわざ。そんなことまでして…どうしてですか?もう、貴方は僕におせっかいをしないのだと思っていました」
「そうだな。でもお前、口うるさく言っても聞かない方だろ」
今までで散々学習したからこそ、考えて虎徹はこの無理な行動に移ったことを閉めた。
「じゃあ、僕を監視したいんですか?また僕が自虐しないように」
「監視したいわけじゃない。だから不用意に口は挟まないから、せめて一人きりにさせたくないだけなんだ。これが俺なりに譲歩した心配の仕方だと思ってくれ」
丸い金の目を向けて、虎徹は真剣に訴える。
あれから色々と考えたが自分に出来ることは少ないだろう。
でも何もやらないのは嫌だったのだ。
「………わかりました。しばらくなら。でも本当に嫌になったら、直ぐに出ていってもらいますから」
これがガンと言っても動きそうにない虎徹に対する、バーナビーなりの譲歩だった。
邪魔をされなければ、いいと思うようにした。
空いている客間などがあるわけではなかったが、物置代わりにしていた部屋にソファーベッドが横倒しにあったので、とりあえずそこにいてもらうことにした。
元々広い部屋でそんなに家具があるわけではないので、クローゼットを動かし、服や靴を別の部屋に移動させれば、あっさりと空いた空間が出来てしまう。
しばらくすると荷物の片づけを終えた虎徹が何かを手に持って、リビングのバーナビーに近寄った。
「部屋ありがとな」
「まったく…僕が本当に全力で拒否をして、追い出したらどうするつもりだったんですか?」
いや本当はかなり拒否をしたかったが、しぶしぶ嫌々という姿をバーナビーは隠そうとはしない。
実際今でも悩んでいるし、頭は痛いし、これから先のこと思うといろいろと面倒くさい。
門前払いも夢物語ではなかったからこそ、改めて問うのだ。
「そうだなーまた新しくアパートでも借りてたかな」
一人暮らしだから今度は小さいのをと、ははっと笑って虎徹は軽く答える。
「は?住んでいたアパートはどうしたんですか」
聞き捨てならない単語が聞こえた。
バーナビーは虎徹の家に行ったことがないのだが、ブロンズ層に住んでいるから会社が遠い程度の愚痴は聞いたことがあったからだ。
「引き払ってきた」
きれいさっぱりと全ての事実を晒して見せる。
「………馬鹿じゃないですか?なんでそこまで唐突なことするんですか」
拒否られたときの事をあまり考えていなかったらしい。
そうでなければ、賠償金生活などに突入していないだろうが、きっと考えるより先に身体が動くタイプに違いない。
「まーいいじゃないか。うまくいったんだから。それよりバニー。手出して」
手を出せというわりには、虎徹の方がお手をするように手を出して来て、確実に待っている。
「はい?」
謎がりながらもそれぐらいならばと、とりあえずバーナビーは利き手である右手をトンッと出し示す。
「あ、違う。左、左」
手を振りながらも、そこまで言われてようやくバーナビーは虎徹行動を理解して、嫌そうな顔をした。
「もしかして、おせっかいですか?」
右手は物を書いたり食事をしたりと色々と使うこともあるから自重しているが、左手首には酷いリストカットが繰り返されている。
それを見せろということは、バーナビーにとって悪い想像しかつかない。
「まあ、広い意味ではそうかな。まだ治療してないだろ?さっきの。そのポケットに入ってるナイフを取り上げようとか思ってないから、それぐらいはさせてくれや」
そこまで言って、虎徹は小振りの木箱らしき救急箱を前に出した。
いつの間にか手早く消毒液を取り出している。
はあ…と聞こえるぐらいわざとため息をしてから観念して、バーナビーは左手首を差し出した。
ゆっくりと慎重に虎徹は袖をめくる。
現れたのは、血がまだ完全には乾ききっていない細い傷口をいくつも持つ手首。
「よく気が付きましたね…」
確かに虎徹がインターフォンを鳴らす前まで切っていたのだが、それを悟られないように着替えて全てを片づけるために5分間待っていてもらったというのに、無駄だったということかと苦笑する。
手持ちぶたさに、一度ポケットに入っている小型ナイフをなぞる。名前をつけるほど愛用しているものだ。
「だってバニーちゃん。職場や外でやってるの見たことないからさ。じゃ、家に一人でいるときは?ってなるだろ」
虎徹の言うことは事実だった。
外にいるときは専用の仮面をつけてバーナビーを演じているため、仕事用とプライベート用を切り分けて、そのときはナイフの存在さえ忘れいるのかもしれない。
虎徹は返事を求めずに、勝手に進める。
止血する段階までは大丈夫らしかったから、適度な大きさの綿に消毒液を染み込ませて、ぽんぽんっと傷口へと当てる。
微かに赤から変色した茶に近い色が真っ白い綿へと移るが、反面血でじんわり隠れていた傷口のひどさが赤裸々に開かされる。
バーナビーの白い肌に映えている。
「手慣れてますね」
案外どんくさくないことに素直な言葉がでる。
「ま、俺は昔怪我するのが仕事みたいなもんだったからな。今の斎藤さんが作ってくれたスーツは性能いいけど、前は切り傷とかしょっちゅうだったし」
今より若かったが色々とセーブの聞かなかった昔を苦笑しながら思いだしつつも、作業の手は一向に止めない。
「それ、何ですか?」
消毒が一通り終わると、今度は見慣れぬチューブ式の薬を取り出した。
日本語だかなんだかわからないが漢字?のようなので、バーナビーには読めない。
「俺がいつも使ってる軟膏だよ。この辺じゃあんまり売ってないんだけどな。効果は保証するぜ。ちょっと染みるかもしれないけど」
「大丈夫です。そういうのは気になりませんから」
存在の確認をさせてから虎徹は指で白い軟膏をすくい、傷の流れに沿って器用に練り込んでいく。
微かに薬品独特の臭いが周囲を漂う。
「あのさ。さっきから消毒したときも微動さにしないんだけど、痛くないわけ?」
身構えて警戒されているとはわかっているが、それにしてもバーナビーの反応の薄さに虎徹は声を出す。
あまり傷自体を追求したくはないのだが、淡泊に見えたからだ。
「最初は痛かったかもしれないですけどね。もうあんまり手首には痛覚がないんですよ」
虎徹はそのバーナビーの言葉を冷静に聞いて、ぴくりと反応はしたがそれ以上の追求はしなかった。
いったいどれほど繰り返してきたのか、計り知れなかったから。
少なくとも初めてバーナビーに出会った頃は復讐に燃える男ではあったが、こうではなかったはずだった。
考えるのはとりあえず片隅に置き、虎徹は手を動かすことに専念する。
新しいガーゼを取り出して手首に押し当てて重ねると、上から包帯を適度なしめつけで巻いて止めた。
「ま、こんなもんだろ。ほかの場所は?手首だけってわけじゃないんだろ」
「心配しないで下さい。後は、ふとももくらいですが、最近あんまり刺していませんから平気です」
バーナビーにとって足は一番の商売道具みたいなものだから、一応何とかせき止めるようにはしているらしい。
たまたま手首よりお手軽にぶすぶすとやりにくいというのも原因の一つかもしれないが。
「そっか、んじゃそっちも傷口がヤバかったらきちんと言えよ。手当してやるから」
強要しないからこそ、虎徹はそれだけは確実に言った。
「聞かないんですか?僕がなんでこんなことをするのか」
本当に虎徹は、手当をするだけだった。
最初に撮影現場でバレてからも、内心は何を考えているのだか知らないが、深く追求してこなかったのだ。
確かに主に自宅で切っているのでその現場を直接見られたわけでもないが、止めろと制止されたことさえない。
「切る衝動は、別にバニーが悪いわけじゃないだろ?言いたくなったら言ってくれればいいよ」
どう考えても今まで隠していたのだし、無理に聞こうとは思えなかった。
言ってくれるのを虎徹は辛抱強く待つ気満々のようだ。
「言わないかもしれませんよ」
意地悪く言うが、事実言いたいとは到底思っていなかったから本心だし、わざとだ。
「そんときはそんときだ。理由知ったところで俺に解決できるならとっくに言ってるだろ。言わないってことはそういうことだと思っておくよ」
初めから期待すると裏切られるから、予防線も含めて軽くそう言ったように見えた。
「僕が治るまで、ここにいるつもりですか?」
根気負けしたら出ていってくれるのだろうかと、考える。
一度懐に入れてしまったのだから、相当なことがない限り出ていくつもりはないだろうと、虎徹の肝は座っている。
「一応な。期間とか、あんまり深く考えていなかったけど。
さてと。とりあえずキッチン貸してくれる?無理やり押し掛けたわけだし、料理くらい作るからさ」
いつまでも堂々巡りは趣味ではないらしく、明るく話題を切り替えた。
「また、チャーハンですか?」
以前、ホァンと赤ん坊をつれてきたときの料理具合を思い出してメニューを聞く。
「今回は本格的に作るって」
そう言うと勝手知ったる家のように、食材も買い込んできていたらしくビニール袋に詰まった野菜やら肉やらを冷蔵庫へ運ぼうとしている。
だから余計に荷物が多かったらしいが、そんなものよりもっと身の回りの大切な物を持ってくればいいのに、虎徹の中の基準は違うらしい。
元々自炊をするクセがついていないバーナビーの冷蔵庫は飲み物主体なだけだから、大きさの割にたくさん詰め込むことが出来るのが嬉しそうだ。
「おーい、バニー。包丁はどこだ?」
この前は最初からバーナビーが横にいたから普通に包丁を手渡されたのだが、今回は洗い物一つさえも外にでていないほど見事に収納されていて場所がわからない。
勝手に食器棚やら戸棚を開いてみるが、世間一般的に包丁が収納されていると思われる場所にはなかった。
「包丁は鍵かけて閉まってありますから、ちょっと待って下さい」
立ち上がりバーナビーはキッチンへと向かう。
鍵がしまってある場所も別なので、先に取りに行く。
「鍵?何で?高い包丁なのか」
高級メーカーのグラスなど、飾り専用の食器棚に鍵がかかっているのはみたことあるが包丁とはまた珍しいなと感心する。
虎徹の知らない世界だ。
「いえ、そういうわけではないのですが、発作的に取り出して自分に使わないように制御しているだけです」
何でもないように、バーナビーは簡単に説明する。
これは…想像以上に前途多難かもしれないと、虎徹はそんな顔をこちらに見せた。
虎徹が押し掛ける形で始まった、バーナビーとの共同生活は案外長く続いた。
一緒に住むということだけは認めたが、あくまでバーナビーはそれを仕事の延長としかみていなかったから、必要以上に干渉されるつもりもなかった。
だから一人になりたいときはそれなりに部屋にこもっていたし、別にそれを駄目だと虎徹に言われたこともなかった。
でも、そういうときは必ず手首を切ったし、それをわかっていても特に追求もせずに虎徹は根気よく治療を続けた。
そんなことが一ヶ月くらい続いたころだっただろうか。
急にバーナビーより虎徹の方が忙しくなった。
それは仕事柄というより、仕事の合間を縫って、虎徹はなじみの薄そうな雑誌を読んだり図書館に行ったりネットを見たりと、調べ物を始めたからだった。
その実行自体はものすごく早かった。
一番最初はかなり突拍子もなかったので、よく覚えている。
「パズルをしよう!」と、とても明るく言われた。
パズルなんてバーナビーは片手ほどもやった記憶がなかった。
もしかしたら年相応の子供の頃ならば何度かする通過儀礼のようなものなのかもしれないが、生憎バーナビーにそんな純粋な子供心は適用されなかったのだ。
特に断る理由もなかったので「いいですよ」とあっさり了承したのが不味かった。
虎徹が買ってきたのは、全部並べると横2メートル×縦1メートルという大きさの巨大パズルだったのだから。
風景画だったせいが、最後の空の部分のピースが全部同じような青ばかり続いて、二人でやっていても地獄を味わった。
半月かけてやっと完成させて、またもや専用の額縁を買ってはめ込んで壁に飾られたのだが、もうあんまり眺めたい気分ではなくなった。
素晴らしい風景画だというのにもったいない副作用だ。
それが最初の出来事で、虎徹の無茶な提案は、まだまだ続いた。
今まで見たことしかないTVゲームを買って来て、一緒にやるとか。
これは販売元がスポンサーなんだからと完全に押し切られた。
自分たちヒーローをモチーフにした格闘ゲームだから色々と複雑な気持ちになった。
休憩の合間には、クイズやらクロスワードやらどこからともなく登場してやった。
移動するときも時間があれば、ドライブがてらルートをナビに逆らって変えたりする。虎徹曰く裏道らしいが、どこかズレている。
車や部屋のBGMも変化した。
バーナビーが教養と嗜みとして持っていたクラシックCDを引っ張り出されて、あれやこれやと尋ねながらもよく流した。
虎徹は賑やかなオケ曲が好きなようだったが、バーナビーと趣味が違うのを残念がっていた。
そもそも最初はクラシックにも興味がなかったらしく、にわかで一緒に地元の交響楽団が主催しているコンサートへ行ったら後半は確実に寝ていた。
その後も美術館や博物館に何度か行ったが、行こう!と言い出すのは虎徹なのに、うーんさっぱりわからんとか頭をひねっていた。
それでも好みの絵に出会ったときは、油絵の道具を集めてとりあえず一緒に描かされたりした。
スポーツをしようと言われ、ゴルフに誘われたときもバーナビーの方が上手だった。
虎徹はダブルボギーの常連だったが、バーナビーはマーベリックさんの接待ゴルフに付き合っていたことがあったからだ。
とにかく虎徹に付き合うせいで、バーナビーも猛烈に忙しくなった。
断ればいいのだが、断る理由がみつからないのだ。じゃあ、代わりに何をするんだと言われたら言葉がない。
両親の復讐を終えたバーナビーは、基本仕事以外やることなくなった。
今までの趣味はなかったわけではないのだが、メインはウロボロスのことを調べたり、ヒーローとしてファンサービスとかそんなことだったのだ。
それに職業柄、シュテルンビルト内にいなければならない。
仕事は忙しいが、ヒーローとしてそれなりに休息も必要とされているから、自宅待機も多い。
それがなくなって、休憩がてら考えごとをしていると、ネガティブになりナイフを手に取るというパターンだったのだが、そんな余裕さえなくなっていた。
「次の休みは、動物園に行こうぜ!」
そんな生活が数ヶ月続いていた中、また思いついてしまったかのように、虎徹は明るく提案してきた。
現在、この部屋では絶賛アロマテラピー中だ。
独学でとりあえず全部やってみればいいんじゃね?ってノリでやり始めたため、いろいろな匂いが充満してせき込みそうな中、よく次を言えるなとバーナビーは感心するしかない。
「次の休みですか…」
卓上カレンダーに目をやり、バーナビーは少し考える仕草をした。
事情を知っているマーベリックさんとそこから伝わったロイズさんの気遣いで、二人の休みはいつも同じ日だ。
元々二人まとめてのバディヒーローだから、会社側からすればそれが都合の良いことなのだろうが。
「何、忙しい?」
「いえ…そうではないのですが」
「んじゃ、決まりだな」
それくらいの感じで、いつも決まってしまう。
季節は冬で外は凍えるほどに寒い。
動物園に行くのならばもっと適した時期もあるだろうに、たまたま一度も行ったことがないと言う理由だけで適用されたのだろうか。わからない。
その日がやってきた。
「雨降ってますよ」
虎徹は天気予報を最初から気にしていなかったらしく、休日は予想が外れることもなく小雨がぱらついていた。
「お、ラッキー。これで混んでないんじゃね?」
どこまでも前向きな様子を見せているから、雨程度では予定を変更するつもりはないらしい。
もうここまでくると付き合いも長いのかもしれないので今更驚かないが、虎徹という人間はそうなのだとわかっている。
「出かけるのは構いませんが、暖かい格好して下さいよ」
「そうだなぁ。あ、バニーもそんなに変装しなくていいんじゃね?」
いつもは仕事中とは、髪型を変えて色の濃いメガネというスタイルだったが、確かに今日行く場所はすれ違う人も少なそうだ。
「そうですね。メガネはいつもので行きますよ」
もう髪型は襟足の方向をまとめただけだが、セットしてしまったので今更崩せない。
やはり慣れたメガネの方がしっくり来るので、バーナビーはいつものメガネを手に取った。
赤いスポーツカーは必要以上に目立つので移動は虎徹に任せているのがいつものことだ。
向かった先はシュテルンビルト市民動物園で、市営唯一の動物園だ。
巨大都市であるシュテルンビルトには遊園地やら水族館やら動物園はそれなりの数があるが、それはベンチャー企業が経営している。
このチョイスはもちろん虎徹だ。
市営は何と言っても料金が安いのがいいらしい。
親子連れの味方だと、熱弁されたのでとりあえずそういうことを了解した。
駐車場にたどり着くと予想以上にほかの車はまばらにしかなかった。
券売機でチケットを買うとき金属の冷たさを感じて、よくそれを納得した。手がかじかむ。
バーナビーはこの動物園に来るのは初めてだったが、お世辞にも綺麗とは言いがたかった。
市の収益により運営されているのだから、市が潤わなければ充実などしないのだろうから、仕方ないだろう。
たまに建物が善意の寄付で作られた旨のプレートが掲げられている。
狭い通路のアスファルトを歩くがちらちらとしか他人と行き交わない。いわゆる閑古鳥に近い。
それも寒さで身を縮込めており、視線もだいたいは動物へ向かっているので、バーナビーの正体に気がつく人は誰もいなかった。
美術館などとは違い、こういう無邪気に騒いでも良い場所では、虎徹のテンションは高いのがうらやましいくらいだ。
市営はお金がやはりないらしくそんなに珍しい動物などいないのに、いちいちどの動物を見てもうなずいたりして感心している。
確かに興味深くないわけでもないのだが、人間と同じく動物も本能に忠実で、寒いというわけで滅多に動かないし、とにかくなんとか寒さを忘れるために寝ようと必死らしい。
それでも自身の名前には言っている虎の檻の前では、ずいぶんと長く眺めていた。
この動物園でのタイガーはホワイトタイガーなどではなく普通の色だし、雄と雌の一匹ずつ、しかもかなりご老体のようで、髭がくたびれている。
当たり前のように餌の時間でもないかぎり、こちらもしっぽを振る気配さえみせてくれない。
やっと満足したらしく、次の動物、次の動物と順調に見て回っていく。
ぐるっと一周すると入口に戻る構造になっているようで、一つずつ一通り見て回ると出口兼入口に戻ってきていた。
「これで全部ですね」
折り畳んでいたパンフレットを丁寧に戻しながらも、バーナビーは言った。
「あれ、これで終わり?うーんおかしいな…」
頭をひねって虎徹も自身のパンフレットをぱらりと開いたが、開き方が綺麗ではないのでバーナビーと違ってへなる。
「ここに来たことあるんですか?」
「昔、娘を連れてな。そん時はいたような気がするんだけど。多分このあたりに」
手でなぞって一つ一つ確認しながら探す。
「気になるなら、ちょっと行ってきましょうか。ここから近いですし」
虎徹が地図を指し示した場所は、本当にすぐそこだったからこそ言う。
このまま立ち往生されても困るし、後で引きずられても聞くのはどうせバーナビーなのだから。
「さっき見た時いなかった気がするんだけど、移動したのかなあ」
ぶつぶつと口にしながら、二人は動いた。
虎徹が首をかしげながら再びやってきたのは、小動物を管理するエリアだった。
といっても、ニワトリやらハクチョウなどの鳥類はいるし、メインはフェレットやらネズミなので子供のふれあいの場とかしているようだ。
注意深く一つ一つのねぐらを見ていくが、やはり見つからないようだ。
最後に観念して、雨の当たらないベンチに腰掛けて虎徹は盛大に残念がった。
「何を探しているんですか?」
妙な熱心ぶりに関心を求めつつも、聞いてみる。
ここの動物は、他の場所に比べても本当に珍しくない部類に当たるというのに。
ついでにバーナビーも多少疲れたので、間を開けて虎徹の隣に座った。
「ああ、ウサギなんだけどさ。いなくね?」
腕を組んで、虎徹は全力で不思議がった。
そうだ。全部みたというのにウサギが一匹もいないのだ。おかしいと示す。
「確かに見かけてませんね。でもウサギはペットとして珍しいわけではありませんから、犬や猫と同じく動物園にいる需要がないんじゃないですか?」
普段見ることのできない動物の生態を観察するために存在しているのが動物園だ。
犬や猫は確かに可愛らしいが、本来の趣旨からは外れるだろう。
愛らしいという部類に入るウサギも、そちら方面に以降したとしても何ら不思議はなかった。
「マジかよ。差別よくねーぞ」
少し響くぐらい驚いた声を虎徹は出した。本当に信じていないらしい。
「だから、ペットショップとかにもいるじゃないですか。なんでこだわるんですか。まさか僕をバニーって呼んでいるからじゃないでしょうね?」
そこまで熱心にシンクロを求められているとは、冗談を通り越して感心する。
「いや、ま…それもあるんだけどさ。前に見たとき居たウサギが変わってたんだよ。ふつうのウサギって白とか黒とか茶色とかそんなもんだろ?そのウサギさ。全身が綺麗な金色に近かったんだよ。ぶちとかなかったし」
娘にはただの白っぽい茶色だと言われた悲しい記憶がよみがえるが、虎徹にはそう見えたのだ。
「それ、やっぱり僕に似ているってことですよね?」
バーナビーは自分のことをウサギっぽいと思ったことはなかった。
だからバニーと呼ばれ続けることは盲点で少し慣れすぎて忘れていたが、さすがに露骨にウサギを連呼されれば思い出すものだ。
「うーん、そうとも言うな。どこ行ったのかな。元気にしているといいけど」
「それがどれくらい前の出来事か知りませんが、ウサギの寿命ってそんなに長くなかったはずです。死んでしまったのではありませんか?」
犬猫は長いと20年近く生きたりもするはずだが、ハムスター程度だと1、2年だと聞いたことがある。
動物園ならば真っ当に飼育されている方だろうが、ウサギがそもそもの寿命に耐えられるとは思わなかった。
「バニー。そんなに簡単に死ぬとか言わない方がいいぞ」
さすがに不快だったらしく、虎徹の声のトーンが先ほどより一段階落ちた。
よりにもよって、バーナビーに似ているウサギという話だったのだから、必然的に暗い方向を連想してしまうのは仕方ないことだ。
「…珍しく怒りましたね」
虎徹が怒ること自体は珍しくないが、それは冗談混じりの小言とかばかりだ。
バーナビーの内情にかかわることで怒るのは本当に久しぶりだった。
「あ、悪いな。でも最近お前、手当してくれとか言わないし。やっぱり俺は邪魔なのかなって」
いつもはあえて触れない話題をしたのは、静かすぎる外で二人きりだからこそかもしれない。
「いえ、感謝していますよ。側に居てくれることに関しては。
そうですね………少し話をしたくなりました。聞いてくださいますか?」
外の寒さに感傷を刺激されて、初めてをバーナビーは虎徹に言葉を出した。
声は出さずに、こくりと虎徹がうなずくのが見えた。
「………僕が初めて手首を切ったのは、ジェイクを倒して少しした後だったでしょうか。だから比較的早く貴方には知られたのかもしれません」
それでも暇さえあれば何度も何度も切り刻んでいたのだから、傷は全く癒えていなかったのかもしれないが、そういう惨事だった。
「想像ついているかもしれませんが、両親を殺してそのためだけに生きていた僕には目標がなくなってしまった。ジェイクを倒して僕は最終地点にたどり着いてしまったんです」
今まで他のことを考える暇などなく、それなのにぽんっと復讐は終わってしまった。ただ、それだけだった。
そうして自分の世界からにさえ、取り残されてしまった絶望を味わった。
「自分のために生きようと思わなかったのか?」
今度こそバーナビー自身の幸せを掴むために人生が始まるものだと思っていたが、結局は違ったという事態が現在進行形でやってきているのだと知る。
「僕は、自分のことが嫌いなんですよ。大した努力しなくても、何でもそこそこ出来るんです。生きている実感がないのに、傷つかない。でも、今まで僕を傷つけてきたウロボロスが無くなってしまってしまった」
自分は傷つくのがふさわしいのだとバーナビーは説明する。
「だから自分自身で傷つけると?」
「僕は自分自身に必要とされたかった。生きる理由付けが欲しかった。血が流れるを見ていると自分が生きてることがわかるんです。だからその時だけは空虚感から逃れられますけど、一瞬ですけどね。これが、僕が手首を切る理由です。とうとう話しちゃったな。くだらないでしょ」
目を伏せながらもバーナビーは笑う。
くだらない。実にくだらない。子供じみた理由だったから言いたくなかったのだ。
自分の精神はあの四歳の出来事でトラウマから一気に高鳴って、そのまま止まっているのを晒した。
だから、同意を求める。笑ってくれと。
今までずっと虎徹がバーナビーに付き合ってきたのは、そんなものなのだから。
「………くだらなくなんてない。…ありがとな。話してくれて」
虎徹からもたられさた言葉は、バーナビーの期待していた返事ではなかった。
それだからこそ、バーナビーの世界は救われた。
「いいんですか。そんな理由ですよ」
「お前が俺を信頼して話してくれた。それだけで十分だ」
他にどんな理由もなかったから、虎徹からすれば、たったそれだけで良かったのだ。
今まで尋ねなかったのは知りたくなかったわけではない。ただ、この時を待ち続けていたから。
「昨日は、両親の命日だったんです。そういう日は、大抵衝動が凄いんですけど」
そこまで言葉区切った後に、バーナビーは自らの左手を虎徹の前に晒し、留め具を外すとはらりと包帯を外し始めた。
「バニー?」
途中で話しかけられるけど、気にせずにそのまま解き、久しぶりに虎徹はその場所を見ることになる。
開かれて晒される手首はどこまでも白かった。
古傷もかなり薄くなり、言われなければわからないほどになっていた。
「もう随分と前から切ってないんです。ナイフは持っていても、制御出来るようになりました。虎徹さんのおかげです。ありがとうございます」
そうしてバーナビーは心も晒し、最大限に感謝を示した。
「そうか。良かった…良かったな。おいっ」
まるで自分のことのように感情を高ぶらせて言う虎徹は、本当にうれしそうだ。
バーナビーの両腕をしっかりと掴んで、暖かさが伝わってくるほどに熱い。
長かった。確かにここに辿り着くまで長かったのだ。
「実は、カウンセラーからほぼ完治だと言われたのは結構前なんです。でも、なかなか貴方には告げられなかった」
それは両親の命日にはどうなるかわからないからという外的要因も存在していたのだが、他にも理由があった。
無意識に、組んで握っていた指を何度か組み替える。
「どうしたんだ。他にもどこか悪いのか?」
折角安堵したのに、大丈夫か?とまた心配気な表情を虎徹はバーナビーに見せた。
何かあるなら、また面倒を見続けるつもりなのだろうか。お人よしだ。
「いいえ違います。だって………貴方に告げたら、もう僕の側にいる理由がなくなってしまうでしょ」
それは明確な、この生活の終わりとさようならの言葉だった。
「………俺に、側にいて欲しいのか?」
正直反応に困ったが、虎徹はそう捉えたらしく疑問の声に変換される。
それは今回みたいな治療とは違う線を越えているように思えたのだ。
「貴方が側にいないと、また手首を切ってしまうかもしれません。そうだとしたら、どうします?」
最後にバーナビーはリストカット常習者の常套句を並べた。
単純な力ずくの脅迫の言葉である。
YESを選んでもNOを選んでも、自分の為にならない負のスパイラルに陥りことがわかっていても、あえて言った。
そうでもしなければ、本当に虎徹は去ってしまうだろうから。
「あのな、バーナビー。お前全然わかってないよ。冷静に考えてみろよ。いくらパートナーだからって四六時中側にいるなんて嫌に決まってるだろう」
虎徹は全く臆することなく、真摯に自分の気持ちを伝えた。
そうして俺の気持ちも少しは考えてみろと知らせてやる。
「…つまり………僕の良いように解釈していいんですか?貴方も僕の側に居たかったと」
あまりの出来事に目を丸くしながらも、あえて確かめるようにバーナビーは問いただした。
信じられない。まさかそんな。
はっきり言ってもらわないと、そんな幻想に束縛されているだけのような気持ちだったから。
「………最初はパートナーが、厄介なクセ持ってるから治してやろうって程度だったんだけどな。心理学なんかわかんねーし、ちょっと側に居続けただけでこれだよ。お前自分の魅力わかってる?こんなおじさんまでたぶらかして」
お前が治ったって言った瞬間、俺は出ていかなきゃいけないからビクビクさせてさと、続いてぶつくさと照れながらも文句を言う虎徹は、やはり恥を感じたらしくあまりこちらをしっかりと見ては言ってくれなかった。
悪態込みであっが、それはバーナビーの心を揺さぶるのには十分だった。
「虎徹さん!」
思わず声高に名前を呼び、そのままの勢いで飛びかかると虎徹をベンチに押し倒す。
今まで留めていた感情があふれてどうしようもない。まさかこんな気持ちがやってくれるだなんて。
「わー馬鹿。お前意外と本能に忠実だな!」
上から覆いかぶされて体重をかけられたことを自覚した瞬間、なんとか抵抗を見せた。
それをしなければ危険なほどに、勢いが凄かったのだ。
危険を察し、一発デコピンを食らわせてやると、ハンサムな顔にざまぁみろだ言われている気がする。
「僕はウサギなんでしょ?」
「あーわかったよ。家で。家でやろう」
堂々と押さえるように、ぐぐっと指に力を入れてなんとか押しのけられた。
こんなことにハンドレットパワーは使いたくないし、使ってはいけない気がしている。
第一使ったところで、相手も同じなのだから、本気を示すこと以外何の効力も発揮しないだろう。
殆ど誰もいないとはいえ確実に外であるからして、とりあえず自分たちの家に帰ろうと提案するのが、至極真っ当らしい。
「譲歩して、車で。いいですよね?」
「あーもう。好きにしろっ」
少し我慢すれば家に着くだろうが、駄目だこりゃ。と虎徹は悟った。
今までの病んでいた分、ギャップというか………デレって奇妙に怖いと感じることもあるんだなと、変なことを知ってしまった気がする。
その相手がバーナビーなのだから、ま…いっかと楽天的に虎徹は思った。