あれは本当に、自分の知っているバーナビーだったのだろうか。
まるで夢幻のように取り残された後でも、虎徹の頭は正常に動こうとはしなかった。
わからない世界の中に一人きりで取り残されてしまったかのような、気持ち悪い感覚だけに襲われる。
ただ、磨り潰されたクッキーと細かい紙吹雪だけが無残にも床へ這いつくばっているのだけしか見えない。
なんだったんだ。あれは。本当に。
今まで虎徹が抱いていたバーナビーの印象といえば、優秀で完璧主義者でクールで人気者で…そんな誰もが称賛する美辞麗句な単語しか思いつかないほど、文句のない人間だったはずだ。
たまに虎徹に対して悪態をつくのも、それは若さゆえの年齢相当の可愛げがある程度にしか思っていなかった。
それが先ほどのは、その全てを壊していないのに、背筋が凍るほどの恐ろしい出来事だった。
執着?粘着?ストーカー?………そんな陳腐な言葉では済まされないほどの恐怖でしか説明出来ない。
まさか自分にこんな災難が降りかかるなんて…
瞳を見開いたまま、がくりっと足が崩れてもバランスなどとれなかった。
ただ、いつまでたっても震えが止まらないのだ。
何も物事は解決しなくても勝手に時間は進み、朝はやってくる。
外の明るさと小鳥のさえずる声で、最高で最悪の時間を自覚した。
のろのろと身体を引きずるように動くように働きかけた虎徹は、何とかシャワーだけ浴びて着替えた。
食事をとる気分にはまるでならなかった。
夕食さえも一口も食べてはいなかったが、神経を伝って胃が全てを拒否している。
からっぽな胃でさえ吐きたくて仕方ないから、仕方なくトイレで胃液だけを吐きだした。
ミネラルウォーターさえ受け付けず、喉が渇いたが、どうしようもない。
今日も何もなければ、定時出勤をする日だった。
書類仕事や取材やトレーニングは適当にこなすこともある虎徹ではあったが、会社に出勤してヒーローとしての要請を待つという根本的なことをサボったりしたことは一応なかった。
心はどこまでも鬱であったが、行くしかない。
それは仕事をするためというより、昨日のバーナビーが真実であったのかを確かめるために。
覚悟をしていてわかってはいても、足取りはどこまでも重かった。
結局、急いで走る気力もなかなか出ず、定時ギリギリに出勤という形となった。
遅刻寸前と言うのに一度扉の前で止まり、心の臓に手を当てて鼓動のタイミングに合わせてから入室した。
ガチャリ
「…おはようございます」
いた。バーナビーだ。
チラリとこちらに視線をやってから、いつも通りの素気ない挨拶をする。
最低限のそれだけをすると、また仕事の続きというようにパソコンに向き直り、ちらりとももうこちらを見ることはない。
普段の変わらない風景だけが繰り広げられているように見える。
対面する少し奥には、お小言を口に出す経理のおばちゃんが、遅くやってきた虎徹を睨みつけているので、何とか声は出さずに軽く会釈だけした。
よろける足をふんばりつつも、虎徹は席に座る。
バーナビーとの位置関係は横に広い机が隔てているので、直接的に視界に入って来ることはない。
ただ、このフロアには有線などのBGMがないので、キーボードやマウスをクリックする音などは必要以上に耳に入って来る気がする。
普段はこうではなかったはずなのに、意識すると本当に驚くし、知ってしまって嬉しくないことだ。
仕方なく気を紛らわすために、目の前に積まれた書類とファイルの山に向き直る。
主にここ数日対峙した犯罪者への対応に関する賠償金の明細や、スーツに組み込む新しい装備やら、それはきちんとした仕事内容ではあったが、眺めていても全く脳内に入るようなものではなかった。
たまにバーナビーが席を立つ度に、情けないことに、びくついた。
それは大抵、ロイズさんに呼び出されたり、資料室からファイリングを借りてきたりと、そんなことばかりであった。
基本、バーナビーは虎徹よりは忙しい。
今日はたまたま取材などが入っていない為、少し溜まっていた書類を片づけるために専念しているように見えた。
そんな、いつもどおりな筈の光景が不気味なほどに時間だけが過ぎて行った。
「私、今日は早上がりだから、お先に」
空気が動いたのは、経理のおばちゃんの一言。
電卓の音を止め、手早く帳簿を棚へと片づけて鍵をかけ、机の一番下の引き出しからバッグを取り出した。
一般的に経理が忙しいと言われている五十日と請求書の〆日と月末以外、特別なことが起きなければ、それほど切羽詰まるものではないらしい。
仕事さえやっていればいいという実力主義のアポロンメディア社にとっては、虎徹やバーナビーのような緊急呼び出しされるヒーロー以外の従業員には有りがちな光景だ。
だが、しかし今日だけは…虎徹にはそれが悪魔の言葉に聞こえた。
しかしだからといって、呼び止める理由も話せるわけもなく、恨めしい目で見送るだけにとどまる。
こうして、とても簡単にフロアには二人きりという構図が出来上がってしまった。
バーナビーは相変わらずパソコンに向かい、微動作にしない。
二人きりだなんて、ここ以外でも今まで何度もあったことで、当たり前すぎたからだ。
しかし、虎徹の脳内には昨夜の自分の家でバーナビーと二人きりとなったときの、あの光景が脳の奥底にこびり付いて仕方なかった。
書類を持ち上げて読むふりをしつつ、虎徹はバーナビーの眼鏡の向こうの表情をうかがう。
何も変わらない。いつものバーナビーだけがそこにいて、仕事中だからこその沈黙を続けている。
観察しているうちに、何だか昨日の出来事は全てたちの悪い夢だったんじゃないかと思いはじめてきた。
そうだ。そうに違いない。
だって、あんなことあり得るわけがないのだから。
今までの自分に対するバーナビーの素気なく冷たい態度を無理やり思い出して考察して、虎徹は自分を洗脳させるように白昼夢だと信じ込ませた。
まだ、心のどこかでバーナビーを信じたかったのだ………
「………目の下くまが凄いですよ」
最初の挨拶以外で初めて明確に話しかけられて、虎徹の身体は瞬時に硬直した。
多分、バーナビーはこちらを見ているのだろうが、確認する勇気があるわけがない。
「あ、ああ………」
中途半端に口を開けての返事はやっとだった。
元々、気分が顔に出るタイプなのだから、自分の顔を確認する余裕なんてなかったが、恐らくバーナビーが言っていることは最もであろう。
「駄目ですよ。ヒーローなんですから、一睡も寝ないんじゃ」
わざと音をたてて椅子をくるりと回してこちらに向けて、バーナビーは明るい顔で、はっきりとそう言った。
虎徹が一睡もしていないと断言したのだ………そんなことがわかるのは…
「………やっぱり昨日のは…」
とてもじゃないが、言葉がもう続かなかった。
「夢だと思ってもらってもいいですよ。実際、今までずっとそうだったのですから」
「…ずっと……って、いつからなんだ…こんなこと」
ヒーローという職業とはいえ、虎徹は自分がそういった対象になりうる可能性を考えたことがなかったから、まるで気がつかなかった。
気がつかないようにバーナビーが巧妙にしていたのかもしれないが、それでもキッカケさえ何もわからなかったのだ。
「いつから…でしたかね。あんまり前すぎて覚えてないです」
右手を顎に少しだけ当てて少し上を向いて考える仕草はしたが、まるで口調は軽かった。
そんな軽い言葉をするのはいつも虎徹の方だけだったのに、結局のところバーナビーは虎徹にとって最悪の言葉しか発しない。
「やめろ…今なら怒らないから………全部外せば、忘れてやるから」
到底忘れ得ることなんて出来ない出来事ではあったが、それでも記憶の奥底に鍵をかけてねじ込むぐらいやってやるつもりだった。
それくらい未だに虎徹にとっては信じられないのだ。
「嫌ですよ。一応、最初は苦労したんですし。また付けるの面倒じゃないですか」
「………プライベートを覗かれて、お前だったら嫌じゃないのか?」
怒りがふつふつと沸いてきたが、感傷的になったらおしまいだと思った。
ぐっと腹に力を入れて、爪を手の平に押し込めて、堪える。
「一理ありますね。でも貴方にだったら、僕は構いませんよ。なんなら、僕の家にカメラと盗聴器付けますか?」
「遠慮する。大体、面と向かって言われた方がまだマシだった。なんでわざわざそんなことを」
「だから言ったじゃないですか。僕は、貴方を見守っていたいだけなんですよ。実際問題、正面切って伝えても、貴方は僕を受け入れなかったでしょう?」
確かにその通りだったかもしれない。
それでもあまりにもバーナビーの言うことは歪曲しているようにしか聞こえなかった。
「何で、俺なんだ!お前なら、選びたい放題だろうが!」
もう虎徹には怒ることしか出来なかった。
よりにもよって自分の何がどこがいいのが全く理解できなかったからこその言葉。
バーナビー相手ならば魅惑な女性だけではなく、たとえ男だとしても他にもっと良い人間がいただろうとしか思えない。
「もしかして僕に近寄って来る低俗な女達のことを言っているんですか?駄目なんですよ。あいつらはただ、僕の遺伝子か何かが欲しいだけなんですから」
本心からどうでもよいのだろう。酷い言葉なのに、たいして関心もなさそうに告げる。
「そんな言い方しなくても」
虎徹にとっては全くの他人とはいえ、眉間にしわを寄せて言う。
今までバーナビーは女性に対してフェミニストだと思ったのに、あの振る舞いも全てが偽りだったのだろうか。
「ああ、貴方には奥さんがいらっしゃいましたね。癪に触ったのなら謝ります。貴方の奥さんならとても素晴らしい人だったでしょう。もう、お会い出来ないのが非常に残念です」
バーナビーは目を伏せて本当に悲しそうな表情をした。
「…別に俺が結婚していても構わないのか?」
意外だった。いや、結婚していたことは話したし、むしろ娘に関する話題なんて日常茶判事ではあったが、こういうタイプの人間は嫌がるものだと思ったのだ。
「ええ、全然。だって、素晴らしい女性と巡り会えたからこそ今の貴方がいるのでしょ?これは喜ばしいことですよ。奥さんも娘さんも好きだったからこそ、貴方が輝くんですから。むしろ、歓迎します。ありがとうございましたってね」
そう言って、過去形をどこまでも強調した。
丸ごと全部自分を受け入れるつもりなんだ…とわかって、また虎徹は震える。
「どうやらまだわかってもらえないようですけど、僕が貴方を選んだのはですね…
貴方が、利害関係を除いて初めて僕に優しくしてくれた人だから」
ふっと、その時のことを懐かしむような顔をした。
「………俺が初めて?お前にはマーベリックさんがいるだろ?」
虎徹には、何か特別なことをバーナビーにやった記憶はなかった。
ただ、誰にでもするように、パートナーだから少しいつもよりはしつこくお節介をしていただけのつもりだった。
バーナビーに優しい人間なんて今までたくさんいただろう。
言い方は悪いかもしれないが、両親を殺されているという可哀想な境遇の持ち主だ。周囲が優しくしない方がおかしい。
「マーベリックさんには感謝していますよ。でも、だからこそ今の利用し合う関係にいてあげているんです。あの人は僕のことを利用しているんですよ。だから僕も利用しているだけです。みんなそうでした…貴方以外は」
虎徹はこの時瞬間的に悟ってしまった。
バーナビーは優秀だ。優秀すぎたのだ。
子供の時の最悪な状況から大人に成らざるを得なかった。
加えて素質も容姿も何もかも比例して、この若者には備わっていた。
優秀だからこそ、周囲に自覚がなくともバーナビーは何らかの形で利用されてきたから、信じられないのだ。
大きなミスもしないから怒られたりもしない。叱る人間がいなかったのだろう。
それは一人で生きてきたから、生きるために常に予防線を張って来た。
でもパートナーを組まされて嫌々ながらも虎徹と関わって行く中で、生まれた初めての感情が素直になれなかったのだろう。
だから、どこまでも屈折してしまって目の前に転がり落ちてしまった。
虎徹はバーナビー自身にはまるで興味を持たなかったからこそ、どこまでもパートナーとして平等に扱って、だからこそ好意を持たれてしまったのだ。
「だから…僕のこと、嫌いになってくれませんか?」
「………なんで…?」
バーナビーの突き刺さるほどの視線の中で、そんな言葉が落とされて虎徹はいぶかしむ声を出す。
いわゆるバーナビーの行動は、自分を好きになって欲しかったのではないのだろうか。そうだと思っていた。
バーナビーのことを好きか嫌いかと問われれば、今までは好きのカテゴリー内に入っていただろう。
確かにこんな状況では今後どうなるかわからないが、面と向かって嫌いになれと言われても謎は深まるばかりだった。
「どうやら僕は貴方のことを好きになってしまったようなんです。僕が貴方を好きとか、つまらないので、貴方は僕を嫌いになって下さい」
「………それなら、お前が…俺を好きにならなければいいんじゃないか?」
虎徹にはバーナビーの言っている理論が全く理解できなかった。
とにかくこの子は他人を好きになったことさえないのだと、それだけが辛うじて読み取れるくらいだ。
嫌いになってほしいからこそ、自分にこうやって言葉を浴びせているのだろうか。
「何度も試しましたが無理でした。かくなる上は、貴方が僕を嫌いになるしかありません。好きが嫌いになるのは簡単ですが、嫌いが好きになるのは大変なんです」
いくつか症状を分析した結果したらしい言葉をバーナビーは出す。
「だから、あんなことを俺にしているのか?」
「そうですね。貴方が嫌いなのは犯罪者のようですけど、僕はヒーローですから期待にはなかなか沿えません。あ、もちろん間違っても僕を好きになったりしないでくださいね。貴方と両想いとか、気持ち悪いですから」
盗聴やカメラつけている時点で十分犯罪者な気がするが、バーナビーは別段気にしていな様子だった。
ただ自分の気持ちを改変して持て余しているようにだけ見えた。
とても虎徹には理解しがたい…いや、理解できる人間の方が稀な言いっぷりだった。
「………お前を嫌いになれば、あんなことは止めるんだな?」
念押しをするように虎徹は聞いた。
それで済むなら、この狂気とかみ合わない会話が終わるなら………と思った。
それほど今のバーナビーは正常ではないと身が震えたのだ。
「まさか。だったら、初めから明かしたりしませんよ。僕、気が付いちゃったんです。貴方の嫌がる顔が大好きだって」
微笑を蓄えてバーナビーはどこまでも笑う。
その顔は彫刻のように綺麗なのに、瞳は虎徹を凝視してまるで放そうとしない。
世界が決まってしまったのだから仕方ないという言いぶり。
こうやって伝えてあげるだけで、期待通りに虎徹の顔が歪んでくれるが嬉しくて仕方なくてぞくぞくする。
「安心してください。貴方は、特に何もする必要ありませんから。悪いんですけど、一緒に暮らすとか趣味じゃないですし。別に僕は、貴方を犯したいとか殺したいとかそういう願望は今のところないので。ただ、いつも通りにいてくれれば、勝手に僕が楽しむだけです。物理的には、加害するつもりはありません。僕の想いを押し付けたりもしません。簡単でしょ?」
そこまで全てを聞き取った虎徹は、ガタリッと椅子を後ろへと倒して立ち上がった。
完全に精神攻撃しか食らっていないと言うのに、これは何だろう。
自分の方が年配者だというのに、とても言葉でバーナビーを説き伏せるのは無理だと感じとった。
それほど、まるで存在する世界が違うかのように、マトモに会話が成立していないのだ。
「逃げます?でもそうしたら、僕は何をするかわかりませんよ。まだギリギリこうやって近くにいてくれるからこの程度で済んでいますけど」
バーナビーの眼鏡の奥から見える瞳は本気を物語っていた。
確かに今までは直接告げられることはなかったし、そっけなく普通に二人の関係でいることが出来た。
しかし知ってしまった瞬間、とても危ない均衡の上に成り立っていることを理解してしまったのだ。
恥や外聞程度の問題ではすまされないと悟った。
虎徹の身体の力が自然と抜ける。
まるでふにゃふにゃとなってしまい、意識を持たないように。
「そろそろ、トレーニングの時間ですね。行きましょうか」
虎徹は、ただ虚ろにバーナビーの後にくっついていくことしかできなかった。
何も考えがまとまらないが、単純に拒絶するだけでは、到底解決しないと思ったのだ。
離れることも近づくことも駄目だと言われて、虎徹に許されたことは、ただ生きることだけ。
こんな世界で生き続けろと言うのだろうか。
微妙すぎる距離がもたらすのは絶望だけだった。
荷物を持ってジャスティスタワーへと移動して、トレーニングエリアへ向かう。
ロッカールームでトレーニングウェアに着替えるまでの、バーナビーの様子はいつもと何ら代わりがない。
普段ならば虎徹が冗談の一つでも飛ばすのだが、とてもそんな気持ちにはなれなかった。
二人キリの空間で支配するのは沈黙だけだったが、それが無言のプレッシャーとなって身に降りかかるようだった。
何とか手早く着替えた虎徹は、先にロッカールームをでる。
バーナビーがすぐには追ってこなくてほっとしてしまう。
かなり挙動不審な自覚はあるが、普通にしろと言う方がよほど難しい。
トレーニングルームへ向かうしかないのだが、いったいいつまでこんな日々が続くのだろうかと未来を考えると暗くなるばかりだった。
ロッカールームからトレーニングルームはそれほど離れていない。
いくつか歩くとすぐに入り口が見えてきた。
ちょうど虎徹が入ろうとしたところ、シャッと自動扉が開いた。
タオルを軽く首にかけたブルーローズがでてきたところだった。
別に何もないのに変にびくついてしまったのだが、なぜかブルーローズも同時にびくついたので、よけいに驚く。
まるで存在し得ぬような目つきで、こちらを見られた。
「よっ、ブルーローズ」
平常心を保つようにぎくしゃくを見せないように、虎徹はなるべくいつも通りを振る舞い、声を出した。
普段なら軽く左手の一つでもあげるだろうが、さすがにそこまで擬態出来るほどではなかったが、成功したと思っていた。しかし
「わ、私は認めないわよ!」
まさにそれは捨て台詞だった。
それだけ言うと、ブルーローズは反対方向にある女性用のロッカールームへと一目散にかけって行ってしまった。
わけがわからなかったが、後を追うにはなかなか難しい場所なので仕方がない。
結局そのまま自分は荒んだ気持ちのまま、当初の目的であるトレーニングルームに足を運んだ。
出動要請がないため、そこでは大体のメンバーがトレーニングに励んでいた。
虎徹は遅く来たくらいだ。
一応専属しているコーチから手渡されている自分のトレーニングメニューを片手に、ジョギングマシーンからとりかかろうとしたが、入り口近くのベンチで水分補給をしていたネイサンに呼び止められる。
「あらんっ、タイガー。ハンサムは一緒じゃないの?」
ここで一番気になっている人物を示されて、思わず足が止まった。
「………一緒だよ。俺の方が、着替えが早かったから先に来たけど」
パートナーだからといって、虎徹とバーナビーは必ず行動を共にしているわけではなかったから、それは問いかけの一つだと思っていた。
何下もないという程度に、思っていたのだ…
「あーら、駄目よ。素敵なカレシを置いて来ちゃ」
情緒たっぷりにネイサンは言い放った。
「は?」
何を…今一体、何を言われたのだろうか。
カレシ?ネイサンの言葉が、単語というざっくばらんな存在として脳内で回り続ける。
「拙者、全然気がつかなかったでござる」
知らぬ間に皆が虎徹に近寄ってきて、珍しくイワンが一番にそんな声を出してくる。
「いや、とても素晴らしいことだ。素晴らしい」
キースの言うことは正直いつもよくわからなかったが、そのいつもの言葉はいつも以上に虎徹に理解を求めていなかった。
ただオーバーリアクションだけが、視界を風がぶんぶんと横切る。
「びっくりしちゃった。それにしても、男同士って大変だねぇ」
続いて、年少のホァンにさえ、ため息混じりでそんなことを言われる。
「………まあ、大変だろうけど頑張れ」
最後に、長い付き合いの筈のアントニオが今まで見たことないような不思議な生温かい目でこちらを見ながら告げて来る。
何をみんなわかっているのだというのか。
それがわかっていても、虎徹はわかりたくはなかったのだ。
「…あまり冷やかさないで下さい」
いつの間にか、後ろからやってきたらしいバーナビーの声が飛んで来て、虎徹はびくりっと肩を竦める。
「あーら、ハンサムの言うことだから信じているけど、少しはタイガーを茶化して遊んでもいいじゃない」
「この人は、照れ屋さんなんですよ。そんな公言したりしませんから」
そう言って、バーナビーは虎徹の目の前にぐるりとやってきて、真正面から顔を見られる。
そのバーナビーは、射殺すような鋭い目つきをしていた。否定は決して許さないと。
「ああ、すみません。タオルを忘れて来てしまったようです。ちょっと戻りますか」
虎徹にだけわかるようにわざとらしい言葉で、バーナビーは声を張り上げた。
みんなにわからない角度で、硬直している虎徹のTシャツの裾を強く引く。
足がマトモに動く筈もなかったが、ひゅーひゅーとわざと音の立つネイサンの擬音だけを後に残して、二人は再びロッカールームに戻った。
ガタンッと扉を閉めて、鍵もかけると、パッとバーナビーは手を放す。
「別に、ベタベタするつもりもないので大丈夫ですから」
虎徹はそんなことはどうでも良かった。ただ…
「………どういうつもりだ。何で皆が知ってるんだ。お前は、俺に干渉しないんじゃなかったのか?」
「昨日、僕とブルーローズの会話を聞いていたんじゃなかったんですか?あの時、みんなに伝えたんですよ」
驚かれたのが心外だなあといういけしゃあしゃあとした表情を出す。
みんな…みんな、何もかもバーナビーは知っていて、こういうことをやっているのだ。
虎徹はバーナビーとブルーローズの会話を最後まで聞く前にトレーニングルームを後にした。
それはたまたまだったが、バーナビーは全部計算してやっていたに違いない。
「貴方は、みんなに好かれているから…」
女性ならば、うっとりするぐらいの甘い言葉を出して、虎徹を見つめる。
「そんなことは、お前の妄想だ」
虎徹は、強く否定した。根拠もなくそんなこと言われても、わからなすぎる。
そもそも未だにバーナビーが自分に執着する理由を納得していないのに、他の事まで理解するのは無理なのかもしれないが。
「まさか、そんなことないです。貴方は自分自身の魅力に気が付いていない。別に貴方を僕のものにしたいってわけじゃないんですけどね。誰か一人のものになるっていう姿は見たくないだけなんです」
それは自分自身を含めて言っているのだろうか。それさえもわからない。
「それは、お前の我が侭だろう?」
「ええ、そうです。だから、もちろんきちんとマーベリックさんもロイズさんにも伝えてありますよ。概ね了承してもらっています」
だからこそ、バーナビーは更に虎徹を追い詰める言葉を教えてあげた。
「なんで、そこまで…」
そこまでする必要性があったのだろうか。少なくてもバーナビーは当然というような顔をしれっと見せているだけ。
「あ、今度は市民の皆さんに言いますか?バーナビーとワイルドタイガーは付き合っているって」
また、不気味にバーナビーは笑いながら言った。
どんな些細な理由でも悪い虫は排除するつもりを示して確実に言い続ける。
「バニー!お前は何をしたいんだ!!」
どんどん干渉されてくる。もう、どうしても駄目だった。
感情の起伏が止まらなく、どこまでも虎徹の精神を追い詰めて襲いかかった。
どうしてだろう。なんでここまでの事態に陥るほど自分は何も気がつかなかったのだろうか。
耐え切れず、目じりにうっすらと涙が浮かぶ。
「こんな…泣いても本当に可愛いですね」
涙を拭おうと手を差し伸べられるが、虎徹はその右手を手痛く跳ねのける力も出なかった。
ただ、バーナビーの成すがままの存在になりつつある。それを望まれ続けている。
ビー ビー ビー
そんな不安定な空間中、虎徹の通信デバイスが規則的に鳴った。
CALLを示して来るその相手は………
「どうぞ。出ないんですか?娘さんからでしょ」
バーナビーは虎徹の通信デバイスを見ずとも、全てを律するように相手を言い当てて、促す。
もはや、居留守を使うと言う選択肢は虎徹に用意されていなかった。
ちょっと後ろに下がったバーナビーに促されつつ、シャツで涙をぬぐってから、震える手で辛うじてボタンを押す。
「お父さん?」
なかなか電話に出なかったことをいぶかしむ様な声で、楓が言う。
「…ああ」
応える虎徹の声は中途半端だった。
今までどんなに落ち込んでいても、楓に対してこんな声を出したことはあっただろうかというくらいに。
「あ、あのね。ちょっとびっくりしたけど、おめでとう!」
ぎこちない顔で無理やり笑っている愛娘の言葉は、まさしく虎徹を奈落へと突き落とす言葉だった。
言葉を…返事も返すことは出来ずに、何も考えられない酷い世界だ。
「あ…おばあちゃんも代わって欲しいって。ちょっと待って」
待ってくれ。違うんだ。そうじゃない。と言葉を並べたいのに、喉の奥から瞬時に声が出ない。
そう言って楓の姿が消え、直ぐに母親である安寿へと切り替わる。
「虎徹かい。バーナビーさんと付き合っているんだって?」
確かに自分を生んでくれた母親にさえ、決定的な言葉を落とされ続ける。
「………何で知って…」
少し視線をずらせば、笑みを浮かべるバーナビーがいる。
全部仕組まれていること自体わかっていたが、それでも虎徹は母親に尋ねることしか出来ない。
「何でって………バーナビーさんが忙しいのに、わざわざ何度も家に挨拶しに来てくれたんだよ。誠実だし。ヒーローとしての活躍は知っているし。最終的には、楓も頷いてくれた。別に男同士とかいまどき珍しいものじゃないんだけどね。まだあの子の母親が亡くなって五年たっただろうけど、子供心は複雑だろう。まあ、こっちは何とか宥めておくから、落ち着いたら二人で家に来るといいよ」
そこまで告げると、ぷつりと回線が途切れる。
そそくさとした母親は返事を求めなかった。求められなかった。
勝手に話が全部すまされてしまった。
ここまで…ここまで………なんということだ。それほどもう、何もかもが…
自分の世界が、バーナビー中心に回っているようにさえ思えた。
再び近寄って来るバーナビーの存在に気がついて、虎徹はびくりっと震えながらも、なんとか顔を見上げた。
「僕が、なんであのタイミングで貴方を見ていることを告げたと思っているんですか?ここまで、根回しするのは一応大変だったんですよ」
虎徹が、気が付いた時にはすべて遅かった。遅すぎたのだ。
逃げられないように準備するのに時間をかけて、どこまでもバーナビーは進めてきたのに違いない。
そう、虎徹が知ることを許されたのは一番の最後の時だったのだ。
「ここまで周囲が認めても嫌ですか?大丈夫です。何もしません。だから、僕に貴方を見る許可をください」
もう、虎徹はふるふると頭を降ることしかできない。
虎徹の出来ることなど、この手の平に残るものなど、何もないというのに。
もはや反論の言葉さえも微塵も思いつかない。
たとえ言えたとしても、それがバーナビーに通用することはないのだろう。
「本当に嫌だったらここで自殺して下さい。残念ながら僕は貴方を殺せませんから。でも…貴方が死んだらその死体をもらえるなんて一番嬉しいことですけどね。僕の部屋に貴方の物を集めたコレクション室があるんですけど、きっと最高に輝きますよ。その時は、酷い顔をしたまま死んでくださいね」
外堀を完全に埋められた。逃れられない。
こんな状況を知りつつも、いつも通りに生き続けなければいけない恐怖に虎徹はただ、戦慄くことしか出来なかった。